田沼意次(四)田沼時代の文化と出来事

田沼時代の文化

田沼意次の時代(安永・天明期)は、自由で開放的な空気が流れました。なにしろこれまでの倹約、農業、倹約、農業という湿っぽい流れを破り、商業に注目し、どんどん儲けろと打ち出した田沼意次です。

賄賂を取ったと悪口を言われることも多いですが、過去の因習をぶちこわし、新しいことをやろうとしたことは評価されるべきでしょう。そんな自由で開放的な空気の中、田沼時代は文化が盛んに起こります。

杉田玄白・前野良沢が『解体新書』をあらわし、国学では賀茂真淵が出てました。真淵の弟子・本居宣長は『古事記』の研究で知られます。絵画では与謝蕪村。この人は絵画だけでなく俳諧もよくし「菜の花や月は東に日は西に」は今日でもよく知られています。

小説では上田秋成が出て『雨月物語』『春雨物語』をあらわしました。平賀源内も田沼時代の人物です。源内はエレキテルや寒暖計の開発で有名ですが、もとは本草家(植物学者)です。が、それにとどまらない広い範囲の活動をしました。変わった所では、源内は「日本最初のコピーライター」と言われ、「文章で物を売る」ことの先駆けとされます。鈴木春信は錦絵を発展させ、美人画で人気をはくしました。黄表紙、洒落本が流行し、川柳もさかんに詠まれました。

行人坂火事

文化が栄える一方、田沼意次の時代には、天変地異が相次ぎました。明和7年(1770)から翌8年にかけての諸国の旱魃、彗星の出現、

明和9年(1772)2月、目黒行人坂大円寺に放火され、江戸全域に燃え広がりました。行人坂火事です。明暦3年(1657)の振袖火事、文化3年(1806)の車町(くるまちょう)火事と並び、江戸三大火事の一つに数えられます。

今も東京目黒大円寺には行人坂火事の死者を弔うための石仏群が残ります。

目黒大円寺 石仏群 行人坂火事の死者を弔う
目黒大円寺 石仏群 行人坂火事の死者を弔う

同年秋。江戸から東海道九州、奥羽諸国で暴風雨により洪水が起こりました。江戸では特に激しかったです。8月2日、本所・深川は水浸しとなり、できたばかりの永代橋は風で吹き折れてしまいました。

春の行人坂火事で焼けて、あらたに作り直した家が多かったですが、それがまた暴風で吹き倒されました。散々でした。

「明和九年は迷惑だ」

ということで11月に改元あって、安永元年(1772)となりました。当時こういう落首がありました。

めいわ九も 昨日を限り 今日よりは 寿命ひさしき 安永のとし

元号が改まって災害がなくなることを期待してのことでした。しかし反対の意味の落首もありました。

年号は 安く永しと 変われども 諸式高直(こうじき) いまにめいわ九

「諸式」は物価。「高直」は値段が高いこと。物価が値上がりして迷惑だと歌います。

翌安永2年(1773)今度は疫病がはやります。江戸市中で3月から5月まで十九万人の死者が出ました。

主に身分の低い下々の者が病気にかかりましたが、やがて上流社会にも及び、尾張徳川家の徳川治休(はるよし)が病死しました。それを歌って言うことに、

御屋敷へ 町からうつる 疫病は はじめ中間 をわり(尾張)中将

天明の浅間焼け

天明3年(1783)浅間山が大噴火します。4月から小さな噴火が続いていましたが、じょじょに激しくなり、ついに7月8日、大音響とともに高らかに岩石を吹き上げました。

「天明の浅間焼け」です。

溶岩流は火口北側から東北に流れ、ふもとの家々を襲いました。村123、死者1411人が出たと記録されています。

溶岩が冷えて固まると、現在「鬼押出し」と言われる独特の景観ができました。

そこでまた落首。

砂や降る 神代も聞ぬ 田沼川 米くれなひに 水野もうとは

浅間しや 富士より高き 米相場 火の降る江戸に 砂の降るとは

火炎を交えて立ち上る煙は江戸の町にまで灰を降らせました。

天明の飢饉

また天明2年から6、7年にかけて大規模な飢饉が起こります。天明の飢饉です。特に天明3年(1783)は、浅間山の噴火と重なります。

立ち上る煙で日照時間は短くなるわ、降りしきる灰で気温は下がるわで、関東東北では秋になっても収穫がありませんでした。

津軽弘前では郡内で8万1702人の死亡が記録されています。その様子を記して言うことに、

卯(天明三年)のききんもこの近国関東のうちは、まだ大ききんとはいうにいたらず。…奥州等の他国にては、うえ死にせしが多くありけり。わけて大ききんの所にては、食物の類とては、一色もなかりければ、牛や馬の肉はいうに及ばず、犬猪までも喰ひ尽しけれども、ついに命をたもち得ずして、うえ死にけり。その甚だしき所にては、家数のニ、三十もありし村々、或は竈の四、五十もありし里々にて人皆死に尽し、ひとりとして命をたもちしはなきもありけり。そのなき跡を弔う者なければ、命の終りし日も知れず。死骸は埋めざれば鳥けだものの餌食となれり。庭も門もくさむらも荒れて、一村一里すべて亡所となりしもあり。

『農喩(のうゆ)』

ある人がこの飢饉の最中、山道に迷って民家にたどり着いた所、中には白骨が累々と転がっていた。大いに衝撃を受けて、ふらつきながらも、ようやく山路をたどって人里に行き着いたと。

飢饉の激しい所では、はじめ草や葉を食べていたが、それも無くなると、死体の肉を切り取って食べた。あるいは子供の首を斬って、髪の毛を剥がして、焚き火で炙り、頭蓋骨の切れ目から匙を差し込んで、脳ミソを抜き出して食べた。

陸奥の国である人がなんとかという橋を渡った所、そこに死体が一体あって、二人の男がたかって腿の肉をそいでいる。どうするのだときくと、草葉に混ぜて犬の肉と偽って売るのだと答えたと…

そんな悲惨な話の数々が伝えられます。

解説:左大臣光永