平賀源内(一) 志度の天狗小僧

平賀源内(1728-79)。

江戸時代中期の本草家(植物学者)。四国讃岐高松藩・志度の出身。長崎遊学・江戸遊学を経て本草学(植物学)を学ぶも、本草学とどまらず、さまざまな分野で活動しました。

日本初の物産会の開催。アスベスト布(火浣布)の発明。オランダ製を改良した寒暖計の制作。そして電気を発生する装置「エレキテル」の制作。

秩父での金山・鉄山開発。戯作者としても活躍し風来山人・天竺浪人の名で滑稽本を書きました。また浄瑠璃作家でもあり、『神霊矢口渡』は今日まで繰り返し上演されています。

平賀源内 その出生

平賀源内は享保13年(1728)四国讃岐国高松藩志度浦(しどうら)に下級武士の子として生まれます。

源内の家は貧しかったので、高松藩士・真田宇衛門の屋敷に、茶坊主として働きに出されました。茶坊主とは子供の世話をしたり食事を整える仕事です。

志度の天狗小僧

源内(当時、四方吉)は、持ち前の好奇心と知識欲でしばしば周囲を驚かせました。

12歳に時に作った「おみき天神」は有名です。

床の間に天神さまの屏風絵が下げてある。たくさんの見物客の前で、よーく見ててくれみんな。平賀源内がお神酒をお供えする。すると「あっ!天神のさまの顔が」「赤くなっていくぞ」「ふふふ…みんな驚いているな」という具合でした。

屏風絵の裏面に仕掛けがあり、お神酒をお供えするタイミングでひそかに紐を引くと、天神さまの顔の部分に赤い紙がかかって赤らんだように見える仕掛けです。現在も志度には「おみき天神」の実物なるものが伝わっています。

他にも源内は…野の草や花や木を収集して分類し名前をつけたり、、機械仕掛けのからくりを作ったり…城下で評判になり、「志度の天狗小僧」と呼ばれていました。

本草学を学ぶ

「この子は只者ではない」

そう思った主人真田宇衛門は、高松藩家老に相談し、源内に本草学を学ばせます。その一方、薬園係として源内を雇い、高松藩の薬園の管理をさせることにします。

しかし薬園係は暇な仕事でした。すぐに源内はイヤになってきます。

「このまま高松藩の足軽になるのか?そんなのはつまらない。俺は学問がしたいし、広い世の中に出て大きな仕事がしたいんだ」

そこで考えたのが長崎遊学です。

長崎に行って、オランダ語の書物を読み、オランダ人から学問を習い、世界の文物に触れる。そうだ。俺がやりたいのはそれだ。

平賀源内は、上役に申し出ます。

「私は病気のため、薬園係を続けることができません。しばらく休ませてください」

藩主松平公は結局、源内の申し出を受け入れ、源内の長崎行きが決まりました。時に宝暦2年(1752)源内25歳でした。同じ年、八代将軍吉宗が亡くなり、家重が九代将軍となりました。

長崎遊学

「ようやく、長崎に行けるのだ!待ってろ長崎!」

宝暦2年(1752)25歳の平賀源内は高松を後に、長崎に至ります。長崎は鎖国体制の日本にあって、唯一、世界に開いた窓でした。

出島にはオランダ人が、唐人屋敷には中国人が住まい、海にはオランダ・中国の帆船が浮かんでいました。海外のめずらしい文物が入ってきていました。

すぐに源内は唐人屋敷に入り込み、そこで行われていた唐人のインチキ商売に呆れ果てます。

唐人は日本人に薬種の知識が無いのをいいことに、偽物や粗悪品を売りつけていたのです。源内は本草学の知識から、中国人の扱う品が偽物と粗悪品ばかりとわかりました。

いちいちそれを指摘しては、唐人のインチキ商売を邪魔しました。

「今度四国から来た平賀源内という人はたいした学者だ」

すぐに源内の学識は評判になります。

源内のもとに本草学を学ぼうと、多くの者が出入りするようになりました。

「ははは、長崎にも俺ほどの智恵の立つ者はいないじゃないか」

源内は得意満面でした。毎日唐人屋敷に入り浸っては、唐人のインチキを暴き、家に帰ると、門人たちに本草学を講義しました。

その傍ら、日々机にかじりつき、蘭書を読み、目が痛くなるほど勉強しました。蘭学だけではありません。いろいろなことに手を出しました。

オランダ製や中国製の陶器には特に興味を持ちました。それも、買って並べるだけではありません。これを自分で作れないか。そこで書物を買い漁り、釉薬(うわぐすり)や竈の作り方まで研究しました。

西洋画(油絵)にも興味を持ちました。先生について西洋画の技法を習い、後には実際に自ら油絵を描いています。

外国船の船内にある電気器具にも興味を示しました。借りてきてはバラバラに分解して、また組み立てては、仕組みを調べました。

1年間の長崎滞在中、源内の好奇心は縦横無尽にかけめぐりました。

退役願い

宝暦3年(1753)、源内は一年間の長崎遊学を終えて四国高松藩に戻ります。しかしすぐにうずうずしてきました。長崎遊学の興奮が冷めやらないのです。もっと学びたい。広い世界を見たい。源内には、四国の田舎はいかにも退屈でした。

翌宝暦4年(1754)7月、源内は病気を理由に退職願を出して、許されます。同年、従兄弟の礒五郎を妹里与の婿養子として迎え、平賀家の家督を継がせます。

つまり、仕事と家督の両方を手放したのです。江戸に遊学するための下準備でした。

出発は宝暦6年(1756)3月。

29歳の源内は故郷を離れるにあたって、その思いを句に託して、

井の中を はなれ兼たる 蛙(かわず)かな

俳諧の友人たちが平賀源内を見送って有馬温泉までついてきて、別れを惜しみました。

江戸へ

宝暦6年(1756)4月、江戸に登った源内は田村藍水(たむら らんすい)の門下に入り、本草学・物産学を学ぶ一方、林家の塾(昌平黌)に入り、儒学・漢学を学びます。

儒学など源内のもっとも嫌いそうな分野ですが、本草学・物産学の文献は漢文で書かれており、漢文が読めないと話にならなかったためです。それに昌平黌に寄宿すると家賃がかからないことも利点でした。

薬品会

勉強の傍ら、源内はイベントプランナーとしての才能を発揮します。宝暦7年(1757)湯島で日本初の薬品会(やくひんえ)が開かれました。

薬品会とは、さまざまな薬種や物産を集めて展示する、小型の物産会です。主催者は田村藍水でしたが、実際に企画立案したのは源内でした。展示物はわずか180点。宣伝しなかっかので客もごく身内だけでした。

杉田玄白・中川淳庵

そのわずかな客の中に、源内の生涯の友・杉田玄白・中川淳庵との出会いがありました。二人は後に『ターヘル・アナトミア』の翻訳事業を手がけます。

翌宝暦8年(1758)神田で第二回の薬品会が開かれます。出品数は第一回より多く、口伝えで評判をきいた人たちが訪れました。

翌宝暦9年(1759)今度は自らの名で第三回薬品会を湯島で開きます。

高松藩士となる

こうした源内の活躍は、高松藩主松平頼恭(よりたか)の耳に入ります。

「なんとか源内を手元に置いておきたい」

そう考えた松平頼恭は源内を正式に高松藩士として召し抱えることにしました。

ただし源内はあくまでも「藩主に個人的に学問を教える」という認識でした。藩士になるつもりはありませんでした。

とはいえ、藩から見たら源内はこれで「家来」になったわけです。

とたんに忙しくなりました。

松平公が京都に向かう時はそのお供をさせられ、相模の海岸でめずらしい貝を集めるのを手伝わされ、目黒にある薬草園の管理や標本づくりを手伝わされ…

源内の不満はつのる一方でした。

宝暦11年(1761)2月、源内は藩主松平公に辞職願を提出します。

松平公は考えた末、今後高松藩以外の藩に仕えないことを約束するなら、辞職を許すと回答してきます。

藩士を自らやめるような不届き者は、死ぬまで浪人せよということです。

結局、源内はこの申し出を受けました。以後、源内は一生、不安定な浪人生活を強いられることになりました。

解説:左大臣光永