田沼意次(ニ)通貨政策と蝦夷地開拓

通貨の一元化政策

家治政権下で、田沼意次の地位はさらに増し、さまざまな改革が行われます。

まずは通貨の一元化政策です。

江戸時代の通貨は金(きん)・銀(ぎん)・銭(せん)の3つがありました。これを三貨体制といいます。金は両・分・朱、銀は貫・匁、銭は文(もん)という単位で数えました。銭1000文を一貫文とします。

ところがややこしいことに、金・銀・銭はまったく独立した貨幣であって、たとえば金一両が銀何匁文に相当するのか?銀一匁は銭何貫に相当するのか?その交換比率は変動しました。

場所によっても、時代によっても、金・銀・銭の交換比率は変動しました。ややこしいです。それでは経済活動に不便ですので、幕府としては「できればこうあってほしい」という希望公定価格を示しました。

金一両=銀六十匁=銭四貫文

と。

しかし、あくまでこれは幕府側の「希望」であって、現実には目まぐるしく変動しました。相場は安定しませんでした。

また、江戸を中心とした東国では金が主に流通し、京大阪を中心とした西国では銀が主に流通する、という違いもありました。これも事をややこしくする要因でした。

そこで明和2年(1765)田沼意次は新たに「明和五匁銀」を鋳造させました。幕府の公定価格どおり、キッチリ金一両が銀六十匁に相当するように作った五匁銀貨です。五匁銀貨ですので、12枚で金一両となります。

それまで安定しなかった金と銀の交換比率を一定にしたのです。これにより経済活動がスムーズになることを図りました。

しかし、これは簡単には受け入れられませんでした。

江戸幕府がはじまってから150年。

それだけの期間、慣れてきた通貨体制を急に変えることに、人々は抵抗を覚えました。反発しました。よくわからん??という者もあったでしょう。

また、両替商から反発が起こりました。両替商は金・銀・銭の相場変動によって儲けていたので、相場が安定してしまうと食い扶持の一つが無くなります。だから両替商は田沼意次の政策に猛反発しました。

彼らは幕府の意図に反して独自の相場を立てたので、「金一両=銀六十匁」の原則は崩れました。結局この明和五匁銀は8年で潰されてしまいました。

ついで幕府は明和9年(1772)「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)」を出します。

これも金と銀の相場の固定を狙った銀貨でした。やはり両替商たちから猛反発が来て独自の相場が立てられ、潰されました。

新しい仕組みが生まれようとすると、既得権を侵されそうになった業界から猛反発が来る。いつの時代も同じです。

田沼意次は手をつくして金・銀の相場の安定に務めました。そのせいか、田沼の活躍した宝暦-天明期は天明の飢饉を除き、金・銀相場は比較的安定していました。

ただし庶民の貨幣である銭価は下がる一方でした。

これじゃ生活できない。田沼ってヤツはロクなことしねえ。庶民の恨みの声は巷に満ちました。銭貨下落による一揆も起こりました。この銭価下落問題が、田沼政権崩壊の一因ともなります。

結局、金・銀・銭にまたがる貨幣相場の安定は田沼の時代には達成できず、次の松平定信に持ち越されます。

蝦夷地の調査・開拓

さて田沼意次の業績の一つとして、蝦夷地の調査・開発が挙げられます。蝦夷地は今の北海道・樺太・千島です。その大部分にアイヌが住み、北海道西南のわずかな地が松前藩の所領地でした。

松前藩は幕府からアイヌとの交易を独占することを許され、利益を上げていました。

田沼意次時代、ロシアの船がたびたび蝦夷地近海にあらわれ、通商を求めていました。天明3年(1783)奥州仙台藩の医師・工藤平助は『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』をあらわします。「赤蝦夷」とは蝦夷地の艮(北東)にある国=ロシアのことです。

その中で工藤平助はロシアの進出と、蝦夷地を調査し開拓する必要を説きました。これを受けて、

翌天明4年(1784)、勘定奉行松本秀持(ひでもち)が田沼意次に蝦夷地調査についての伺書を提出。その際、『赤蝦夷風説考』を添えました。

田沼意次はこの伺書を受け入れ、幕府より正式に蝦夷地調査の命令が下ります。天明5年(1785)、第一次調査隊を蝦夷地に派遣。

調査隊は東蝦夷・西蝦夷・知床岬から宗谷にかけての奥蝦夷、そして樺太にあたる北蝦夷を調査して報告書を届けてきました。

その結果、蝦夷地は広大で肥沃な土地があり、開拓に向いているということがわかりました。

ただし赤蝦夷(ロシア)についてはじゅうぶんな情報が得られませんでした。松前藩ではロシアと密かに貿易しており、その利益を幕府に問われると、いろいろと面倒です。

それで、松前藩は藩士に対してもアイヌに対しても「赤蝦夷については幕府の役人にしゃべるな」と脅していました。それで調査隊はロシアについてじゅうぶんな情報を得られませんでした。

解説:左大臣光永