彰義隊(五)彰義隊その後

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こんにちは。左大臣光永です。

最近、漫画を読んでると、「老害」とか「昭和」とかバカにされてた時代錯誤な感じのオッサンが、ここ一番の場面で大活躍して(例 災害現場で人を救う)、その結果、若者たちに見直される、という話の筋をよくみるのですが、フィクションでそういう展開が多いということは、現実のオッサンは若者から「老害」「昭和」とバカにされっぱなしで、活躍する場もなく、見直されることもなく、鬱々と怨念をため続けているのかなとも思います…

本日は彰義隊(五)最終回「彰義隊 その後」です。

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上野恩賜公園 彰義隊戦死者碑

彰義隊(一)~(四)はこちら
https://history.kaisetsuvoice.com/cat_Bakumatsu.html#Syougitai

徳川の駿河移封

慶応4年(1868)5月15日の上野戦争は半日で終わりました。彰義隊は壊滅し、生き残った者は寛永寺の東側から脱出していきました。

徳川の菩提寺として栄耀栄華をきわめた寛永寺は炎上し、文字通り灰燼と化しました。

清水観音堂、五重塔、上野東照宮は上野戦争で焼失しなかった数少ない建物です。

五重塔(現 上野動物園内)
五重塔(現 上野動物園内)

8日後の5月24日、徳川を駿河70万石に減封とすること、江戸城を返還しないことが伝えられました。

彰義隊壊滅のタイミングだからこそ、発表できたことでした。どんなに不満でも、新政府に逆らったら討伐される。そのことを新政府は、彰義隊の殲滅をもって、印象づけた上で、駿河移封・江戸城返還せずというキツい条件を明かしたのでした。

彰義隊 その後

戦の後

もっとも戦いが激しかった黒門口前の上野広小路は、明暦の大火の後、火除地(ひよけち)として整備された、江戸でも有数の盛り場です。しかし、彰義隊の戦い翌日のありさまは地獄絵図でした。

この日の昼、戦争の終わった頃、和泉橋大倉屋に集まっていた諸藩の鉄砲指南役は、店の番傘を借りて足駄がけに鉄砲をかついで、ぞろぞろ戦争を見に出かけた。主人喜八郎も昨夜の事件があって今日の事で、ぶらぶら出かけて行く。三枚橋内に入ると、たたき裏金(うらきん)に葵の紋のついた陣笠をかぶった武士がごろごろたおれている。首がなくて、その斬り口へ陣笠だけのせてあったりする。

その死んでいるのをいい事にして官軍の連中がまたむやみに斬る。腕やら肩の辺の肉などは刺身か膾のようになってしまう。それを後から後からとまた斬る。真裸になって死んでいるものもあれば、お経などを持って木へよりかかって死んでいるものもある。

しかし、官軍には刀傷でやられて血だらけの者が多いが、彰義隊のは鉄砲で死んだのが多いから、割に綺麗だった。顔などズダズダに斬られているものもあるが、大抵は死んでから斬ったのだから血が出ていない。

『戊辰物語』東京日日新聞社会分編 岩波文庫

仏磨和尚

寛永寺境内の新政府軍の遺体は回収されましたが、彰義隊の遺体200体以上は新政府の命令で回収を許されず、しばらく放置されていました。

ここに南千住の臨済宗円通寺の住職・仏磨(ぶつま)和尚なる人物がありました。

信濃の出身で、朝から酒ばかり飲んでいて、畳は破れるに任せ、法衣はつぎはぎだらけ、しかも荒れ寺をいっこうに恥じないという変わり者でした。物の本には「丸顔で相撲取りのような肥った大きな人だった」とあります。

学問もでき、説法も上手なのに、どこか威厳に欠けていました。

ところがこの仏磨和尚、何を思ったか上野戦争の直後、雨のふりしきる中、山を訪れ、腐敗しつつある彰義隊の死体に読経をしてまわりました。

肉親をさがしにきた彰義隊の家族は驚きます。なにしろ今や彰義隊は朝敵・賊軍あつかい。彰義隊の死体を供養するということは、新政府からニラまれます。

「もし、御坊は何を…?」

と尋ねたのが、神田旅籠町の商人・三河屋幸三郎です。侠客として名高く、徳川びいきで知られていました。和尚は答えました。

「仏に賊軍も官軍もあるまい。野ざらしはかわいそうだ…」

三河屋幸三郎、なるほどもっともだと共感します。ふたりして総督府に願い出るも、なにけしからんと仏磨和尚は捕らえられ、牢に入れられました。

しかし10日ほどで許され、埋葬の許可が出ました。仏磨和尚は檀家数十人を引き連れて上野山王台に彰義隊の死体を集め、丁重に荼毘にふしました。

その後、円通寺境内に彰義隊の墓を建て、定期的な供養を行うようになりました。「戊辰東軍戦死者大法会」です。

仏磨和尚と三河屋幸三郎には後日談があります。

その後も仏磨和尚は深酒をやめず、寺は荒れ放題でした。三河屋幸三郎は和尚の人柄を深く慕っていたので、寺の修繕費用として30両を寄付しました。

ところが和尚は、その30両をすべて飲んでしまいました。仕方なく、再度、30両を寄付しました。和尚はそれも飲んでしまいました。

今度こそ最後だと30両寄付しました。これも飲んでしまいました。三河屋幸三郎はついに愛想をつかして仏磨和尚との縁を切りました。

ところが仏磨和尚は、飲んだと見せかけて旧幕臣や生活に困った人に件の90両を寄付していたのでした。

三河屋幸三郎は、和尚にはとうていかなわないと降参して、檀家になったということです。

明治40年(1907)焼け残った黒門が帝室博物館から円通寺に寄贈されました。今でも円通寺境内に、黒門はあります。生々しい弾痕が、戦の激しさを今に伝えています。

輪王寺宮 公現法親王

彰義隊が旗印とした輪王寺宮公現法親王は、寛永寺を脱出し、豊島郡三河島村に逃げますが、その後、江戸市中を転々としたあげく、榎本武揚の軍艦に便乗して会津に向かいました。

新政府と対立していた奥羽越列藩連合に身を寄せるためでした。別ルートで脱出していた輪王寺宮執刀・覚王院義観も、会津で輪王寺宮と再会しました。輪王寺宮は奥羽越列藩連合の錦の御旗として、快く受けいれられました。

しかし米沢藩・仙台藩・会津藩があいついで新政府に降参すると、輪王寺宮も降参しました。その後、輪王寺宮は京都にもどり実家の伏見宮家で謹慎生活に入ります。

明治3年に還俗して伏見宮家に復帰。明治5年、弟が継いでいた北白川宮を相続して北白川宮能仁(よしひさ)親王と名乗ります。

プロシヤ留学を経て軍務につき、陸軍少将、陸軍中将となり、近衛師団長に任じられ、明治38年(1895)台湾出征中に疫病にかかり亡くなりました。

北白川宮能仁像(北の丸公園)
北白川宮能仁像(北の丸公園)

現在、北の丸公園の南側に軍馬にまたがった輪王寺宮=北白川宮のさっそうたる銅像が立っています。

天野八郎

大将の天野八郎は100人あまりの兵を率いて輪王寺宮の後を追い、三河島村に到りますが、輪王寺宮の側近から、こんなに敗走兵をつれていては、かえって敵の標的になる。よそに行くようと命じられます。

天野はやむをえず道灌山を越え、巣鴨を横切り、小石川音羽の護国寺に逃げ込みます。天野と別ルートで逃げていた幹部の何人かも、すでに護国寺に入っていました。

護国寺は五代将軍綱吉の母・桂昌院による徳川家にゆかりの深い寺。ために、彰義隊を丁重に迎え入れました。

護国寺 本堂
護国寺 本堂

護国寺で一休みの後、天野は江戸の各地を転々としましたが、やがて本所の炭屋文次郎宅にひそみました。天野はここから平気で江戸の中央に出ていき、同志と再起の打ち合わせをしました。

常に太刀をはき、白昼でもせいぜい深編笠をかぶる程度でした。

ずっと後年、五代目尾上菊五郎が天野八郎を演じた時(新富座『皐月晴上野朝風』)、金魚屋の手代に化けて官軍の目をごまかすというくだりがありました。これに対し「天野は町人に化けるようなビクビクした男ではない」と彰義隊の生き残りからクレームがついたそうです。

7月13日、隠れ家の奥座敷で同志と打ち合わせをしていたところ、新政府軍に踏み込まれ、捕らえられました。そして処罰をうける前に、11月4日、獄中で病死しました。享年38。

北にのみ稲妻ありて月暗し

北の稲妻とは、北上してなおも戦い続ける榎本艦隊のことでしょう。もっとも天野は榎本艦隊に誘われるも、断っています。

天野が獄中で記した『斃旧録(へいきゅうろく)』は、明治43年(1910)刊行の『彰義隊戦史』におさめられ、現在でも彰義隊の歴史を知る上での貴重な史料となっています。

渋沢成一郎

彰義隊の残党は寛永寺を脱出すると、元頭取・渋沢成一郎の指揮する振武軍と合流しました。そして拠点を箱根ヶ崎から高麗郡飯能村に移して新政府軍へ抵抗する構えを取ります。

しかし、すぐに新政府軍に知られました。5月23日未明より入間川沿いで数時間、合戦の後、彰義隊残党および振武軍は敗れました。上野の戦いから8日後のことでした。

渋沢成一郎はその後、各地を転々としたあげく、榎本武揚の艦隊に便乗して会津へ、さらに蝦夷地に渡りますが、新政府軍の討伐にあい、明治2年(1869)5月18日、榎本武揚は降伏。ほどなく渋沢成一郎も降伏。東京に送られ、獄中の人となります。

しかしやがて赦免されると、名を渋沢喜作とあらため、従兄弟の渋沢栄一の招きで一時、大蔵省に入りました。その後、生糸問屋・廻米問屋などを営み、実業家として大いに成功しました。大正元年(1912)75歳で亡くなりました。

彰義隊の墓

明治7年(1874)彰義隊の生き残り・小川興里(おがわ おきさと)ほか二人の嘆願により、上野山王台に彰義隊の銅製の墓が建立されました。しかしほどなく、興里以外の二人が経営に参加できなくなり、墓の維持は興里ひとりにのしかかりました。

興里は私財を投じ田畑を売り払って墓の維持につとめようとしましたが、資金繰りが追いつかず、ついに銅製の墓は撤去されてしまいました。

現在、上野公園に建つ彰義隊の墓は明治17年に再建されたものです。


上野恩賜公園 彰義隊戦死者碑

大きな墓石の前に小さな墓石が祀られています。小さな墓石は上野戦争の直後、寛永寺塔頭の寒松院と護国院の住職がつくって、密かに地中に埋めておいたものです。いわば初代の墓石です。

現在、上野公園の西郷隆盛像は観光スポットとして大人気ですが、西郷隆盛像のすぐ近くに立つ彰義隊の墓に関心をもつ人はまれです。

かつて上野公園の全域が寛永寺の境内だったこと。明治のはじめに戊辰戦争の行く末を方向づけた上野戦争があったこと。それは徳川家康の江戸入府以来、江戸で戦われた最初で最後の戦いであったことなど、思いをはせながら、上野公園を歩いてみるのはいかがでしょうか。

次回から、「行基の生涯」をお届けします。奈良時代に各地を遊行しながら池や橋や灌漑施設をつくり、東大寺の大仏建立にも貢献した、行基菩薩。その生涯にせまります。お楽しみに。

参考文献
『江戸のいちばん長い日』安藤優一郎 文藝春秋
『ビジュアル 日本の合戦 勝海舟・江戸開城と彰義隊の戦い』講談社
『福翁自伝』福沢諭吉 岩波文庫
『氷川清談』勝海舟 岩波文庫
『海舟全集』改造社
『戊辰戦争論』石井孝 吉川弘文館
『幕末維新懐古談』高村光雲 岩波文庫
『半峰昔ばなし』高田早苗 早稲田大学出版部
『彰義隊戦史』山崎有信
『真説 上野彰義隊』加来耕三 中公文庫

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66番前大僧正行尊~

解説:左大臣光永

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