シーボルト事件

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シーボルトの日本赴任

文政6年(1823)8月11日、長崎の港にオランダの帆船ドゥ・ドリー・ヘズステル(三人姉妹)号が入港しました。新任のオランダ商館長が赴任してきたのです。

商館長一行の中に、さっそうたる軍服姿の青年の姿が、ありました。

フィリップ=フランツ=バルタザール=フォン=シーボルト。28歳。ドイツ人医師。

家はドイツ医学界の名門で、20歳でヴュルツブルグ大学に入学。医学のほか、解剖学・植物学・動物学・地理学・薬学・人類学などを学びました。

24歳で卒業すると、開業医をはじめました。しかし、大学でまなんだ自然科学分野…とくに植物学・動物学に対する情熱を忘れられませんでした。

26歳のシーボルトは、軍医としてオランダで勤務につき、東インドの植民地に行くことを決意しました。

遠い異国の地で、見たこともない植物や動物、鉱物にふれる!

その研究心が、若きシーボルトをつき動かしました。

はじめオランダ領東インド陸軍外科軍医少佐に任命され、ロッテルダムから船に乗り、約3ヶ月の航海を経て、1823年2月、バタヴィア(ジャカルタのオランダ植民地時代の地名)に到着。約二ヶ月間、砲兵連隊の軍医として勤務した後、出島商館付の医師として日本での勤務を命じられました。

またオランダ政府は、シーボルトに別の任務も与えていました。医師として勤務するかたわら、日本の植物・動物・鉱物などを採集し、オランダ本国に送れと。これこそシーボルトにうってつけの任務でした。

1823年6月28日、シーボルトと新オランダ商館長・ステュルレルを乗せたドゥ・ドリー・ヘズステル号はバタヴィアを出港し、8月11日、長崎につきました。

さてこの当時、日本はオランダ・中国としか交易していません。ドイツ人のシーボルトが入国することは本来できません。しかしドイツ語はオランダ語に似ていることと、通詞が「高地ドイツ人」というのを「山オランダ人」と訳したことで、ことなきを得ました。

長崎赴任後、一年もするうちにシーボルトの学識は周囲に知れ渡ります。それで幕府も特別に許可して、長崎郊外の鳴滝に診療所兼塾を作らせました。

高良斎(こう りょうさい)・高野長英(たかの ちょうえい)・小関三英(おぜき さんえい)・伊東玄朴(いとう げんぼく)・戸塚静海(とつか せいかい)など、総勢57名が、鳴滝塾で、シーボルトから近代医学・近代科学を学びました。

しかもシーボルトの教育は日本式の詰め込み教育ではありませんでした。生徒自らに考えさせ論文を書かせました。生徒の知的好奇心は大いにそそられました。

その間、シーボルトは丸山の遊女其扇(そのき)…本名楠本お滝に入れ込み、お滝との間にイネという女子が生まれました。

江戸滞在

文政9年(1826)、31歳のシーボルトはオランダ商館長ステュルレルの江戸参府につきそって江戸にのぼります。

オランダ商館帳の江戸参府はかつては毎年行われていましたが、寛政2年(1790)の貿易半減令に伴い、四年に一度になっていました。シーボルトは、それにつきそったのです。

江戸滞在中、シーボルトは最上徳内や幕府天文方兼・書物奉行の高橋景保と交流を持ちます。高橋景保は暦学・天文学の大家・高橋至時(よしとき)の息子です。浅草の天文台で地図製作・測量・翻訳などに当たっていました。

高橋景保は樺太の東海岸の地形がわからず、困っていました。そこでシーボルトはそれらを含む『オランダ王国海外領土地図』や『世界周航図』を高橋に送りました。

高橋はお返しに伊能忠敬による『日本図』の縮小版などをシーボルトに送りました。これが後に事件につながっていきます。

逮捕

文政11年(1828)9月、シーボルトは満五年の任期を終えて帰国しようとしていました。10月28日、江戸からシーボルトが高橋景保に当てて高橋が取り次いだ、間宮林蔵宛の手紙と贈り物の更紗が送り返されてきます。

「はて…?」

去る5月、高橋景保はシーボルトからの包を受け取ると、その中の間宮林蔵あてのものを林蔵に送りました。しかし林蔵はそれを開封せず、そのまま勘定奉行に届けたのです。

「高橋景保は外国人と私に文通しています。けしからんことです」と。

間宮林蔵は地図をつくった伊能忠敬とはたいへん親しく、公私にわたる付き合いでした。伊能忠敬が生涯をかけた大仕事である「日本全図」を外国に持ち出されることが、間宮林蔵にはたえられなかったのかもしれません。

それで、間宮林蔵は高橋景保を勘定奉行に密告したようです。

文政11年(1828)11月16日、江戸で幕府天文方兼・書物奉行の高橋景保の自宅への取り調べが行われました。結果、高橋景保と配下の下川辺林衛門(しもかわべ りんえもん)が逮捕されました。

11月28日、長崎で、シーボルトの門人の医師5人が、名指しで出島への出入りを禁じられます。シーボルトと高橋景保が私的に文通する、その仲立ちをしたから、というのが理由でした。

12月16日、長崎のシーボルトの自宅の捜索が行われ、禁制品の地図が没収されました。

シーボルトへの厳しい取り調べが始まりました。文政12年(1829)1月27日より、長崎奉行所で数度にわたり取り調べを受け、尋問の項目も23箇条におよびました。

シーボルトは出国を許されず長崎に留め置かれました。シーボルトを乗せて帰国するはずだったコルネリウス・ハウトマン号は、シーボルトを乗せないまま、同年2月後半に出港しました。

取り調べの内容は次の二点でした。

一、地図をはじめとする贈答品の内容
二、仲介者は誰か

シーボルトは一の贈答品の内容についてはしゃべったものの、二の仲介者については記憶があいまいであるとして口をつぐみました。関係者に迷惑がおよぶことを恐れたのです。

「全員でなくてもよい。せめて四五人だけでも名を挙げさせよ」

長崎奉行所はオランダ商館長にそう言って説得を要求しますが、シーボルトはガンとして口を割りませんでした。

江戸でも長崎でも、シーボルトが捕まっている間、捜査が進んでいました。多くの逮捕者が出ました。高橋景保は2月16日に獄中で死にました。その死体は判決が出るまで塩漬けにされました。

3月4日、シーボルトが持ち出そうとしていた禁制品の中に、葵の紋のついた帷子が見つかりました。将軍侍医・土生玄碩(はぶ げんせき)が白内障の手術に使う薬と引き換えに渡したものでした。

10月22日、長崎にシーボルトへの申し渡しが届きました。いわく、

「禁制品が届いたのに通詞にも言わず、嘘の供述をした。禁制品と知らなかったとしても、国法をおかしたことは事実である。よって、国禁をもうしつける」

すなわち、国外追放・再渡航禁止ということです。すでに出国している前商館長ステュルレルも、監督不行届であるとして再渡航禁止になりました。

シーボルトの処分からだいぶ遅れて、日本人への処分が決まりました。

天保元年(1830)1月10日、土生玄碩とその息子が改易となります。4月28日、高橋景保はすでに獄中で死んでいましたが、あらためて死罪が言い渡されます。高橋の二人の息子、および関係者10人余りが追放・押込・お叱りなどの処分を受けます。

通詞のうち三人は江戸に送られ、大名預かりの永牢(永遠に牢屋に入れられる)となり、長崎に帰ることなく死にました。

長崎でもシーボルトの手引きをした者20以上が処罰されました。

文政12年(1829)12月30日、シーボルトは日本を去りました。

帰国とその後

1829年12月30日、長崎を出向したシーボルトはバタヴィア(ジャカルタ)を経て、翌1830年7月7日、オランダのフリッシンゲンにつきました。その後、ライデンに居住し日本研究の成果を整理・分類する作業に入ります。

禁制品は前もって小分けしてオランダに送ってありました。地図も没収される前に書き写して送っていたので、大丈夫でした。

しかし、日本研究の成果を本として出版するには莫大な資金が必要でした。そこで34年から35年にかけて、ヨーロッパ各国で予約購読と資金援助をつのる旅に出ます。

サンクト・ペテルスブルグ、モスクワ、ベルリン、パリ、ドレスデン、ウィーン、ワイマールをまわり、ロシアのニコライ1世、オーストリアのフランツ1世の宮廷にも顔を出し、著名な学者たちと交わりました。

1845年ベルリンで25歳年下の女性と結婚。翌年、長男アレクサンダー誕生。1847年ライン湖畔ボッパルトに移住。1853年よりボン転居。その間、オランダ国王ウィレム2世の信頼を受け、オランダ領インド陸軍参謀付・植民省の日本問題顧問に任じられました。

またシーボルトは日本の植物を分類・整理し、標本やスケッチを添えた『日本植物誌』、日本の動物を分類整理した『日本動物誌』を刊行しました。

日本から持ち帰った植物の種子を植えて、ヨーロッパの気候にあわせて改良し、販売しました。

日本の地理・宗教・社会などを広く論じた『日本』は全20巻の予定で18巻まで刊行されました。

開国に向けて

1842年、アヘン戦争に清が敗北しました。清は屈辱的な南京条約をイギリスから押し付けられました。日本はその様子を見て、異国船打ち払い令を撤回し、薪水冷を発しました。

それまで、異国船が近づけば打ち払うといっていたのが、薪と水を提供するとなったわけです。

これは日本開国にむけての第一歩とヨーロッパ諸国の目にはうつりました。

この間、シーボルトはオランダ政府の外交顧問として、日本に滞在した経験をいかして意見し続けました。ロシアからも招かれ意見を求められました。

平和的開国。

それがシーボルトの考えでした。

アメリカ・ロシアはじめ国々が日本に開国を求めるなら、オランダは快く手助けすべきだ。

ただし開国はあくまで平和的にやるべきだ。日本の伝統や儀礼は重んじなければならない。武力をもって恫喝するなど、もってのほかだ。それがシーボルトの考えでした。

しかしシーボルトの意見はアメリカには受け入れられず、嘉永6年(1853)ペリー来航、翌安政元年、日本側に一方的に不利な日米和親条約が締結されます。

シーボルト再来日

日本では、条約締結のために来日していたオランダ国王使節ドンケル・クルチウスが、シーボルトの再入国禁止の撤回を申請していました。

安政4年(1857)12月、ついに許可がおりました。オランダ植民省から東インド会社顧問として出向という形で、シーボルトはふたたび日本に向かうことになりました。任期は二年でした。

安政5年(1858)8月4日、シーボルトは29年ぶりに長崎の地をふみます。すぐに長崎奉行に書状を送り、日本、オランダはもちろん、諸外国のために働きたいと、来日の目的を伝えました。

つづいて、貨幣交換の規則の改正、保税倉庫の建設、石炭開発のための技術者の招聘など、長崎奉行にさまざまな提案を書き送ります。

※保税倉庫…外国の貨物がそこにある間は一定期間、関税の徴収を免除される倉庫。貨物の検査を行い、中継ぎ貿易や加工貿易を円滑にするため。

その後は横浜、江戸に拠点をうつし、さまざまな外交問題・政治問題に奔走しました。

文久元年(1861)7月5日、江戸高輪の東禅寺でイギリス行使館襲撃事件が起こりました。東禅寺を仮の公使館としていたところ、水戸浪士に襲撃され、書記官オリフォント、長崎領事モリソンが負傷しました。

この時、シーボルトはけが人の救出に駆けつけるとともに、外交問題にならないように各国の行使と面会し、幕府を擁護しました。一方で幕府に対してはこんなことが二度と起こらないよう、厳しく言います。

こうしたシーボルトの活動に対して、オランダ本国では不満と疑念が高まっていました。

「シーボルトはオランダ本国を無視して、勝手なことをやっている。これは独断である」

ついにオランダから呼び戻されます。

文久元年(1861)11月17日、シーボルトは江戸を後にします。翌文久2年(1862)5月7日、長崎発。バタヴィアを経て、翌1863年1月にはヨーロッパに戻りました。同年10月、シーボルトはオランダ政府の職務を退きました。

ドイツ帰国後は、日本に残してきた長男アレクサンダーを通じて日本人と文通し、再来日の機会をさぐりましたが、実現しませんでした。

1866年、シーボルトは滞在中のミュンヘンで70歳で亡くなりました。

黒船来航(一)」に続きます。

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