黒船来航(一)

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嘉永6年(1853)ペリー率いるアメリカ艦隊が来航し、アメリカ合衆国大統領フィルモアの国書を手渡します。翌嘉永7年(1854)日本とアメリカの間に日米和親条約がむすばれ日本は否応なしに国際社会の中に放り出されることとなりました。

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黒船来航 初日

「えらいもんが来ました!黒船です!」
「なに黒船?」

嘉永六年(1853)6月3日、マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の戦艦四隻が、江戸湾入り口に迫ります。四隻は同日午後5時ころ、浦賀沖1.5マイル(2700メートル)で錨をおろしました。

四隻の船は、サスケハナ、ミシシッピ、プリマス、サラトガ。

旗艦サスケハナとミシシッピは鉄張りの蒸気船で黒煙をもうもうと上げていました。
プリマスとサラトガは帆船ながら巨大なものでした。

四隻とも真っ黒に塗装し、多数の大砲を装備し、陸地に向けていつでも発射できる構えでした。乗員は小銃を備えて戦闘態勢を取っていました。

旧暦6月の午後5時はまだ明るく、浦賀の沖合には十隻以上の漁船が浮かんでいました。そこへ四隻の真っ黒なごつい戦艦が猛スピードで走ってきたのです。漁師たちも仰天したでしょう。

すぐに漁師の一人が浦賀奉行所に届け出ます。

「なに黒船?大砲!」

浦賀奉行・戸田氏栄(うじよし)は話をきいて仰天します。すぐに中島三郎助ほか与力三人に通訳をつけて、漁師に船をこがせて、異国船に向かわせます。

与力と通訳を乗せた船は黒船の横腹に近づき、「すみやかに退去せよ」とフランス語の札を高く掲げ、大声で怒鳴ります。

すると船のほうから、長崎なまりの英語で、「お前ら下っ端じゃ話にならん。もっと上の者を連れてこい」

そこで中島三郎助はとっさの嘘で、

「私は浦賀の副知事だ」

そう言ったところ、よしじゃあ上がってこいと上から鉤縄を投げてきました。中島たちはよじ登って、ようやく船に上がることができました。

中島三郎助は副官コンティ大尉に、通訳を通して言います。

「日本の決まりであるから、まずは長崎へ行け」

すると返ってきた答えは、

「長崎に行く必要は無い。我が提督は日本の大君(徳川将軍)に当てたアメリカ大統領の国書を手渡すためにわざわざ江戸近くまで来たのである。それを長崎へ行けとは何事か。

我々は平和を愛しており、何の悪意も無い。それを長崎へ行けとは!酷い侮辱だ。もし国書を受け取らないならば、武力をもって将軍に国書を渡すしかない」

まったく話になりませんでした。それにしても「我々は平和を愛している」と言った直後に「武力行使」をちらつかせるとは…さすがはアメリカ様です。

中島三郎助はタジタジになります。

「とにかく我々には権限が無いから、いったん帰って、上司と相談した上で返事をする」

そんなこといって船を去りました。

午後九時。ペリー艦隊四隻は時報の大砲を撃ち、その轟音が浦賀湾内に響き渡ります。

その夜、報告を受けた浦賀奉行戸田氏栄(うじよし)は、江戸表へ使者を飛ばします。

6月4日 三日の猶予を得る

翌6月4日の朝。戸田氏栄は筆頭与力香山栄左衛門に通訳二人をつけて、サスケハナ号に使者として遣わします。サスケハナ号からは参謀長アダムス大佐と艦長のブキャナン大佐が対応しました。

「長崎へ行け」
「行かない」

押し問答が続いた挙句、アメリカ側は言いました。

「どうしても長崎に行けというなら、我々は江戸湾に入って上陸し、将軍に直接国書を渡すまでだ。世界の情勢は、国を閉ざしている場合ではない。国を開いて交易する時だ。それをいつまでも自国だけに引きこもっているのは天理に反している。世界の常識に反している。それでも拒むというなら、大砲をもってこじ開けるまでだ」

さらに言いました。

「いざ戦争になって、貴国がどうにも抵抗できないとなったら、ここに白旗を二本用意してきた。これを掲げなさい。いつでも講和に応じてやるから」

そう言って実際に白旗を二本出したといいます。

どうにも返事に困って、香山栄左衛門は、

「しかし国禁を犯すことはできない。江戸に伺いを立てた上で返事するから、四日の猶予がほしい」

「四日?なぜそんなにいる!三日で返事しなさい」

「ひいっ…わ、わかりました」

幕府はペリー来航を前もって知っていた

実はペリーが来航することは幕府は前もって知っていました。

ずっと前からです!

最初に情報がもたらされたのはペリー来航3年前の嘉永3年(1850)。アメリカが日本との交易を望み、オランダにその仲介を頼んできたのです。その時オランダは日本における貿易利権が邪魔されることをおそれて、アメリカの頼みを断りました。そして事のしだいを長崎奉行に報告します。

以後、オランダはアメリカから何か言ってくるたびに長崎奉行に報告し、長崎奉行から幕府に知らせが行きました。その報告回数は六回に及びます。

嘉永5年(1852)に入ると、オランダからもたらされる情報はいよいよ切羽つまったものになってきます。近々アメリカ艦隊が日本に来航するだろう。今までの外交政策は変更しなくてはならないと。

しかし幕府は何もしませんでした。

嘉永5年(1852)のオランダ風説書には、より詳しい情報が記されていました。はじめオーリックが、ついでペリーが艦隊司令官となった。いずれ軍艦と陸戦部隊も派遣されるだろうと。なんと司令官の名前まであらかじめ伝わっていたのです。

それでも幕府は何もしませんでした。

ついにはペリー艦隊が琉球を経て、小笠原に立ちよってから日本に来るという具体的な航路まで、オランダから伝わってきました。

それでも幕府は何もしませんでした。

さすが日本人の事なかれ主義、ここに極まるといった感じですね!「ただちに影響はない」ってヤツです。

こうして嘉永6年(1853)6月3日。ペリー浦賀来航となるわけです。

警戒態勢

6月4日、「外国船来る」の詳しい報告が幕府に届けられます。えらいことになった。幕閣は仰天し、川越藩、忍藩、会津藩、彦根藩の四藩に警備を厳重にせよと知らせます。さらに江戸に近い佐倉藩、館山藩、勝山藩(いずれも千葉)に出兵を命じました。ただし、くれぐれも穏便にと命じてありました…

6月5日

翌6月5日。薩摩、長州、熊本など大きな藩にも江戸の沿岸警備が命じられます。

この日、ペリー艦隊は全く動きませんでした。

「もしや言うことを聞いて長崎に行くつもりでは?」

幕閣たちは期待しましたが、後で調べてみたら、何のことはない。この日は日曜日で、みんな休んでいたのでした。

黒船来航(二)」に続きます。

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解説:左大臣光永

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