島原天草一揆(島原の乱)(一)一揆の始まり
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島原・天草の圧政
戦国時代。
九州の島原は有馬晴信が、天草は小西行長が治めていました。どちらもキリシタン大名でした。
有馬晴信は、キリスト教を保護する一方、仏教徒を迫害し、神社仏閣を破壊し、領民にキリスト教の信仰を強制しました。
島原・天草
しかし江戸時代に入ると慶長17年(1612)、幕府は禁教令を発布。キリシタンへの締め付けを強めていきます。
島原藩松倉氏と天草を領有する唐津藩主寺沢氏は、キリシタンを激しく弾圧しました。
島原 武家屋敷跡
島原では改宗しない者は生きたまま雲仙岳の火口に投げ込まれました。
天草では信者に熱湯をかけ火あぶりにして、海に投げ込んだりしました。
また、農民への取り立ても厳しく容赦ないものでした。
年貢を払えない農民は捕らえられ、蓑でちまき状に巻かれ火をつけられました。
あっ、あああーーっ、あづ、あづあづーーーっ
お父、お父
あなたぁーーー
炎に包まれ、ごろごろと転げまわる農民。柵の向こうで泣き叫ぶ妻子。
「ぎゃーーーーっはっはっっははああーーーーっ
蓑踊りじゃあああああああああああああああ」
腹を抱えて笑い狂う役人たち。
さらに、
寛永11年(1634)以降、飢饉が続きました。それでも年貢の負担は減らされなかったので、農民たちはいよいよ追い詰められていきました。
天童あらわる
島原の領民たちへの苛烈な取り立てと凶作が頂点に達した寛永14年(1637)秋、一つのうわさが広がります。
それは23年前に島原を追放された宣教師ママコスの預言として、
「今から25年後、16歳の天童があらわれる。彼は生まれながらにあらゆる道に通じ、やすやすと奇跡を起こす。天は東西の雲を焦がし、地には時ならぬ花が咲く。国土は鳴動し、家々や草木は焼け滅びる。人々は首にクルスを巻き、山野にはたちまち白旗がたなびき、キリスト教の勢いは異教をのみこみ、天帝はあまねく万民を救う」
また天変地異が相次ぎます。空が赤く焼け、秋なのに春の花が咲きます。将軍家光が病の床についてもういくばくもないという噂も流れます。
「時は近づいた!今年中には肥前・肥後が。来年中には九州全体が、一二年のうちに日本全体がキリスト教に改宗するであろう!疫病が流行し、クルスを首に巻かぬ異教徒どもはことごとく死に絶えるであろう!」
北村西望作 祈りを捧げる天草四郎像
このころ、天草の大矢野島に益田甚兵衛(ますだじんべえ)という浪人がありました。主君・小西行長が関ヶ原で没落した後は再任官もかなわず、百姓同然で暮らしを立てていました。この益田甚兵衛に、四郎時貞(ときさだ)という息子がありました。見目うるわしく体格は堂々として学問に通じていました。
「この方こそ預言にある天童だ」
天草のキリシタンたちはそう信じました。
一揆の始まり
事件の発端はごく小さな出来事でした。
寛永14年(1637)10月23日、島原有馬村南の百姓二名が天草の大矢野に渡り、益田四郎時貞よりキリスト教の洗礼を受けました。
百姓二名は四郎からキリストの絵像を授けられて持ち帰り、これを拝んだ700人ほどがキリシタンになりました。
翌24日、事の次第が島原城に報告されます。なに700人がキリシタンに!けしからんということで同心頭を集会所に派遣したところ、すでに大勢集まっていました。
ええい、どけ。どけ。
同心頭はかき割っていき、騒動のもととなった百姓二人を逮捕しました。
またこの日、島原と天草の間に浮かぶ湯島では、各村のキリシタン代表がひそかに集まり、天草四郎のもと秘密会議を開いていました。
湯島(談合島)
その結果、翌日から各村で寺を焼き払い、僧侶を殺し、自分たちのキリシタンであることを明かそうと決まりました。
翌25日、島原の有馬村原尾という所でキリシタンが集会を開いているという情報が島原城に入ります。
代官・林丘左衛門が駆けつけると、すでに大勢集まっていました。やめいキリスト教は許さんぞと、林丘左衛門がキリストの絵像を引き破ると、
「何しやがる!」
「異教徒めが!」
「死んどきゃあ!!」
逆上したキリシタンたちは林丘左衛門に襲い掛かり、林丘左衛門が抵抗する暇も与えず、殴り、蹴り、林丘左衛門をなぶり殺しにします
「こうなったら引き返せない」
「やる所までやるんだ!」
すぐに各村に飛脚を立てると、各村で、キリシタンたちが蜂起します。今まで領主からさんざん虐め抜かれてきたキリシタンたちが、今度は復讐する番でした。
彼らは寺を、神社を焼き払い、僧侶を殺し、通りがかりの旅人にも襲い掛かって、磔にして殺しました。
足だけ逆さに出して生き埋めにされた者、馬で引き回された者もありました。
島原城包囲
「ひ、ひいいッ…助けてくれえッ」
島原の百姓たちは島原城に逃げ込みました。このような時に領民を保護するのも、城の役目です。
島原城 復元天守
「異教徒どもを皆殺しにしろ!」
「デウスさまを信じない者は地獄行きだ!」
暴徒の群れと化した一揆勢は島原城に押し寄せ、大手門で戦闘が行われます。一揆勢はまさかりで木戸口を叩き壊す、守備兵はその切れ目から鉄砲を射撃する。…そんな戦いが夜の10時まで続きました。夜12時ころ、ようやく一揆勢は引き揚げます。
大手門前には無数の死体が転がりました。その中には四人の女も含まれていました。そのうち二人は首に数珠を巻いていました。キリシタンたちは異教徒は皆殺しにすると宣言しており、事実、それを実行に移しつつありました。
本渡合戦
時を同じくして海を隔てた天草上島(かみしま)でもキリシタンが一揆を起こしました。島原の一揆と連動しての武装蜂起でした。天草のキリシタン勢は寺や神社を焼き討ちにしながらクルスの旗を立てながら進みます。
富岡城城代・三宅藤兵衛(みやけ とうべえ)は唐津藩の増援を得て鎮圧に乗り出しますが、
天草のキリシタン勢は、島原のキリシタン勢と合流。そして島原キリシタン勢の中には総大将の四郎時貞もいました。大いに士気上がる天草・島原のキリシタン勢。
11月14日、天草下島(しもしま)の本渡(ほんど)で富岡勢と合戦になります。富岡勢はキリシタン勢にさんざんに打ち負かされ、富岡城に撤退。司令官の三宅藤兵衛も戦死してしまいました。
この時、久留米の町人が船から降りてきた天草四郎をたまたま目撃して、その記録を残しています。数少ない天草四郎目撃証言のうちの一つです。
「四郎出立は、常の着る物の上に白き綾を着、裁着(たっつけ。旅行用の袴)を着、かしらには苧(からむし。アサやカラムシの繊維を紡いだ糸)をもって三つ編にして当て緒をつけ、のど下にて留め、額にちひさき十字を立て申し、御幣を持ちて惣勢下知仕り候」
富岡城包囲戦
本渡合戦に勝利したキリシタン勢はいよいよ士気上がり、天草上島北岸の五領村に侵入。村を焼き討ちにします。
「あわわ…乱暴はやめてください!!」
「ええーーいデウス様に逆らうか!!」
ずばあ
ぎゃああああ
「異教徒に死を!!
ドスウゥゥッ
ぎゃぁああああ
容赦ない殺戮。燃え上がる炎。なんとか一命を取り留めた村人たちは船で海上に逃れますが、そこへもキリシタンの追手が迫り、
「キリシタンになるなら仲間に入れてやろう。
さもなくば異教徒は死ね!!」
「う…うう…わかりました」
こうして大勢が無理やり改宗させられます。
一方、唐津兵は富岡城にこもっていました。富岡城は天草下島の西北の、海に突き出した岬の上にある天然の要害です。
そこへキリシタン勢が大挙して押し寄せます。その陣頭には、本渡の合戦で討ち取った三宅藤兵衛以下、五人の首を掲げていました。
「この者たちはキリシタンに敵対したので討ち取ったのだ」
それが彼らの理屈でした。また、三宅藤兵衛は合戦の前にキリシタン六人を処刑しており、そのことへの報復という意味もありました。
11月18日。キリシタン勢は富岡城南の志岐に陣取りました。
翌19日から城攻めが始まります。しかし…富岡城は突き出した岬の上に築かれた天然の要害。にわか仕立てで武器を取ったキリシタンたちに、簡単に落とせるものではありませんでした。キリシタンたちは鉄砲300挺用意していましたが、むなしく石垣に玉が弾き返されるばかりでした。
「これでは…城攻めなどムリだ」
11月23日。キリシタンたちは富岡城の包囲を解いて撤退をはじめました。
しかし志岐から本渡まで…かんたんには撤退できませんでした。
「さんざんバテレンを押しつけやがって!」
「バテレンどもめが!!
おまえらのインチキ宗教にはうんざりなんだよ!
クルス抱いて海にでも沈んどけゃワレゃ!!」
キリシタンからさんざんキリスト教を強制された村人たちが今度は大挙して襲い掛かり、復讐する番でした。キリシタンたちはあそこここに打ち取られ、屍をさらします。
天草四郎時貞は、わずかな供回りとともに海をわたり、島原南部の口之津(くちのつ)へ逃げ延びます。そこへ、松倉勝家が江戸から戻り島原に入ったことと、佐賀藩の先手が島原半島西口の唐比(からこ)まで迫っている知らせが届きます。
「こうなったら原城に立てこもるのみ」
幕府、鎮圧に乗り出す
さて島原で一揆が起こったわけですから、近くの熊本藩や佐賀藩が鎮圧に出ていけばいいところなんですが…両藩とも、ただ状況を見守るばかりでした。
これより2年前の寛永12年(1635)徳川家光より出された改訂版「武家諸法度」のためです。そこには「たとえどんな事件が起こっても大名はその場所を守り、江戸からの指示を待つこと」そう書かれていました。
それで熊本でも佐賀でも、隣の島原で大騒ぎになっていることは重々承知ながら、幕府の指示が届くまで何一つ手出しができなかったんですね。
11月8日、島原で一揆起こるの知らせが江戸城に届きます。
「キリシタンどもを鎮圧せよ!!」
すぐさま徳川家光は板倉重昌を小倉に下らせます。11月27日、小倉着。板倉重昌から九州諸藩に一揆を鎮圧するよう通達が行き、諸藩はようやく動けるようになりました。
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