島原天草一揆(島原の乱)(ニ)原城の戦い
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原城の戦い 翻弄される幕府軍
一揆勢は幕府軍が乗り出してくると島原城・富岡城の包囲を解き、島原南部の原城に向かいます。その勢3万7千。
原城
原城は海に面した切り立った崖の上にある堅固な城です。松倉氏によって島原城が築城された後は一国一城令により廃城になっていました。
原城 本丸
12月8日、板倉重昌は島原の松倉氏、肥前の鍋島、久留米の有馬、柳川藩の立花などを率いて、原城に攻撃にかかります。しかし。
島原・天草
幕府軍は寄せ集めの烏合の衆で、まったく統率が取れていませんでした。あるいはふてくされて動かず、あるいは手柄を競い合って先駆けしているうちに一揆側に集中攻撃され、さんざんな被害が出てしまいます。
報告を受けて江戸の徳川家光は、板倉重昌ではムリと判断。老中松平信綱を新しい指揮官として島原に向かわせることにしました。
原城の戦い 模型(島原城 キリシタン資料館)
「ああ…私の落ち度になってしまう!」
板倉重昌は何とか次の指揮官が到着する前に手柄を立てなければと焦ります。そこで翌寛永15年(1638)正月元日、原城に総攻撃を仕掛けます。
しかし!
ある者は先駆けし、ある者はふてくされて攻撃に参加せず、てんで話にならない。
「ええい、もうこうなったら一人でやるわい!!」
ついに総司令官の板倉重昌自ら原城の石垣をよじ登り、城内に討ち入った所を、一揆勢にさんざんに斬り殺されてしまいました。
「おい、ひょっとして幕府軍は、アホなんじゃないのか?」
「信仰は勝利!!ハレルヤ!」
バタバタバタバタ…
ひるがえる天帝の旗。
鳴り響く賛美歌。
大いに士気上がる一揆勢。
そのうち一揆勢の一人が城壁の上に飛び上がり、
「お?どうしたどうした。いつも年貢だなんだ威張り散らしてるあの勢いはどこいった?ちったあ根性見せてみろやワレ」
そんなふうに挑発すると、城内からどおっと笑いがあふれました。
城内の様子
さて城内の様子を言えば、
本丸には古き石垣がそのまま残り、棟高き家が二つ見える。これは寺であって、天草四郎時貞が勤行をしている。城中の者が四郎を崇めることは「六条の門跡よりも上」であり、下々の者は頭を伏せて、四郎を仰ぎ見ることもできないほど、畏れている」
二の丸にも三の丸にもすき間なく小屋が立っている。塀の内側に七八尺ほど穴を掘って人員が詰めている。小屋の中にも穴を掘り、鉄砲を防ぐ塹壕としている。
鉄砲を撃つのはこちらから攻めた時だけで、ふだんは撃たない。火薬を温存しているらしい。
総攻撃の時は女どもまで襷をかけ、額にクルスを当てて、鉢巻をして、石つぶてを雨のごとくを投げてくるので、攻撃側は勢いくじかれて、撤退した。
…とこんなふうに記録されています。
オランダ船から砲撃
正月4日、松平信綱 島原着陣。また江戸から鍋島や島原の藩主も下り、加えて黒田・細川の軍勢も加わり、総勢12万となりました。この松平信綱という人は将軍徳川家光のお気に入りで、智慧の発達した人物でした。伊豆守で、しかも智慧が発達していることから「智慧伊豆」の異名を取る人物でした。
「正面から攻めてもラチがあかん。
ここはオランダに協力を仰ぐこととしよう」
そこでオランダ商館長クーケバッケルに依頼してオランダ船に海から原城を砲撃させますが、
「たかが百姓一揆のために外国の手を借りるとは! それではわが国が舐められてしまうのではないですかな!」
こういう声が相次いだので、すぐにやめました。
次に鉱夫に命じて原城までトンネルを掘ろうとしましたが、一揆勢は幕府側の策に気づき、煙でいぶしたり坑道に糞尿を流し込んで抵抗。なかなかうまく行きませんでした。
矢文
1月10日、松平伊豆守信綱は、原城に矢文を射こませます。その文面は、
「何の故にこのような無益な一揆を起こすのか。上様に不服があるのか。それとも領主に不服があるのか。望みがあるなら申してみよ。もし和議に応じるなら、農村に帰ることを許す上、当面は年貢を免除しよう」
1月13日、返事の矢文が届きます。
「我々は上様に不服があるのではない。領主に不服があるのではない。ただ我ら信じる宗旨に従い、たてこもっているのだ」
幕府軍首脳部は頭をかかえました。
「まったく、面の憎きことを申すキリシタンどもよ…」
松平信綱の書状
2月1日、松平信綱は天草四郎の甥・小平に書状を持たせて、原城内に届けさせます。幕府軍は、四郎の母マルタ、姉ふく、妹まん、ふくの息子小平らを捕虜として、島原の陣営に連れてきていたのです。書状にはこう書きました。
「キリシタンが殉教しようが、飢えて死のうが、それは勝手にすればよい。ただし強制的にキリシタンにした異教徒と、今からでもキリスト教を捨てようという者は助けたい。この者たちを城外に出すならば、四郎の母、姉、妹らを城の内へつかわそう」
さあ今度はうまくか?幕府側は期待をよせます。しばらくして。小平は柿やみかん、まんじゅうなどの入った袋を持たされて、島原の陣に返ってきました。返事は、
「われわれ城中の者は、天主に対し身命を賭す覚悟である。
また、異教徒を強制的にキリシタンにしたことはない」
異教徒を強制的にキリシタンにしたことはない、というのは事実に反します。
村を焼き、武器を突きつけ、いやがる浄土真宗信者などを無理やりキリスト教徒にして原城の中に強制連行し、しかも逃げ出さないように見張りまでつけていました。
総攻撃
しかし、一揆勢もさすがに食料が尽きてきました。城内では海藻や麦を食って飢えをしのいでいましたが、寒さも加わり、もう限界でした。
「今が攻め時である」
2月27日、12万の大軍をもって原城に総攻撃をかけます。本当は翌日の28日の予定でしたが、鍋島兵が抜け駆けして、他の藩も釣られたので、なし崩し的に総攻撃が始まったのでした。幕府軍は最後の最後までバラバラでした。
天草四郎の最期
ここに細川忠利の家臣・陣左衛門は天草四郎の館に駆け入ると、絹の衣をかぶって臥せている男がある。
その脇には女が一人。男は陣左衛門の足音に驚きハッと衣を掲げると、陣左衛門すかさず刀をふるい、ずばっと首を斬り飛ばす。首を持って外に駆けだしたところで、ごおーーっと館が焼け落ちました。首を見ると、
…若い。しかも見目麗しき美少年。これはもしや!
しかし、甚左衛門のほかにも天草四郎らしき首を討ち取った者が数十名おりました。そこで、四郎の母マルタに検分させます。ところがマルタは冷静なもので、
「四郎殿はわが子ながら天使でございます。姿を変えて南蛮ルソンにも逃れておりましょう]
しかし、一つの首の前に来ると、
「苦労したんだねえ…」
つぶいて涙を流した。これにより首が天草四郎のものと知れた、という話が伝わっています。
一揆勢にもはや抵抗の余力は無く…
天草四郎以下、城内の老若男女37000人はほとんどが殺害されました。幕府軍の戦死者は1151人、負傷者6743人と記録されています。
宮本武蔵の参戦
ところで島原の乱に参加した、有名な剣豪がいます。
宮本武蔵です。
宮本武蔵は島原の乱に、豊前中津の小笠原勢の騎馬武者として参加しました。
また武蔵の養子の伊織は中津藩の本家筋にあたる小倉小笠原藩の家老として2500石の扶持を受けており、島原の乱には侍大将として参加しています。中津小笠原藩主・小笠原長次はこれが初陣でしたので、武蔵は藩主の周りで19騎を率いて、小倉藩と連携を取りながら護衛しました。
2月27日28日の原城総攻撃にも武蔵は前線で活躍したようで、一揆軍の石が当たってすねを怪我したという書状が残っています。
戦後
「かかる大事に至ったのは、島原城主松倉重治、天草領有の寺沢堅高が領民から過度に取り立てて悪政を行ったためである」
幕府は島原城主松倉重治、天草領有の寺沢堅高両名に処分を下しました。松倉重治は美作に配流後、斬られました。寺沢堅高は天草領を没収され、後日、自ら腹を斬りました。
また家光は武家諸法度の解釈をあらためます。「たとえどんな事件が起こっても大名はその場所を守り、江戸からの指示を待つこと」…今回、この武家諸法度第四条がカセとなって、熊本藩・佐賀藩が動けませんでした。その反省から、
「公儀の定めを破るものや国法に反するものがあれば、幕府の指示を待たずに出動して鎮圧せよ」
との解釈が加えられました。
島原の乱によって、もともと強かった幕府の反キリシタン感情は、頂点に達しました。
徳川家光は日本からキリシタンを根絶やしにする覚悟で、徹底した弾圧に乗り出しました。そして貿易の利益を減らしても、キリシタンとのつながりを断つことのほうを選びました。
寛永16年(1639)、ポルトガル船来航禁止令が出され、いわゆる「鎖国」が完成します。島原の乱はこの後200年あまり続く鎖国体制の、直接の原因となりました。
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