水野忠邦(五) 失脚と浜松打ち壊し

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失脚

天保14年(1843)閏9月7日、将軍家慶により上知令は撤回されました。同13日、水野忠邦は老中を罷免されます。

罷免が決まると、水野忠邦は西の丸下の邸宅を引き払い、三田の中屋敷に移ることとなりました。

「今までさんざん俺たちを虐め抜いて、うまい汁を吸って、いい気になって、偉いつもりで、やめるですむか!水野のゲス野郎!!」

憎悪と歓喜にわく民衆数千人がわーッと水野邸に押し寄せ、小石を邸宅内に投げ入れます。これを止めようとした付近の辻番所はさんざんに叩き壊されました。さらに民衆は水野邸の不浄門をバカンバカンと踏み破りました。

「やめ、やめーっ」

ついに町奉行が出動し、深夜になってようやく騒ぎがおさまりました。多数の逮捕者が出ました。その中には、水野家の足軽でありながら民衆を扇動した者もありました。あはれ水野忠邦は自分とこの足軽にまで見放されたのです。

三田の中屋敷に移った水野忠邦はその無念を詩に詠んでいます。

欲救蒼生天下飢
世人報道我軽肥
傍観当局誰能識
自悔十年相業非

蒼生天下の飢(き)を救はんと欲す
世人 我が軽肥(けいひ)を報道す
傍観当局 誰か能(よ)く識(し)らむ
自ら悔ゆ 十年相業非

私は天下の民の飢を救おうとした。
世の人は、私が好き勝手やっていると噂しあった。
部外者に何がわかるだろう。

最後の「相業非」が意味不明ですが、
十年つまらない老中職についていたことを後悔している、ということでしょう。

老中再任→再辞職

ところが水野忠邦は翌弘化元年(1844)6月、老中首座に再任されます。事情はよくわかりませんが、外交問題に手こずった幕府が、水野忠邦以外に解決できる者がいないということで老中再任となったようです。

しかしもはや水野忠邦に昔日の勢いもやる気もなく、また病がちであることから…翌弘化2年(1845)2月、再辞職します。

辞職後の水野忠邦は、三田葵坂の下屋敷で謹慎となり、和歌や漢詩に没頭します。もともとが凝り性でしたが老中の職務の忙しさに、なかなか時間を割けなかったのです。今こそ暇になり、自分の好きな和歌・漢詩に没頭する水野忠邦。

浜松打ち壊し

しかし。

家督を継いだ嫡男の水野忠精(ただきよ)は悲惨でした。浜松から出羽山形に移封されます。実入りのいい浜松から山形へ。大幅な減収です。もちろん父忠邦の政治責任に連座した懲罰人事でした。

いよいよ浜松城を引き払う段になりました。水野忠精は移封になったのをいいことに、浜松の町人・百姓からの借金を踏み倒して出ていこうとしました。水野家は領民への貸付金を取り立てることには容赦ありませんでしたが、取り立てられるほうは、まっぴら御免なのでした。父子そろってクズすぎるにも程があります。

「ふざけるな!!」

激怒した浜松の町人・百姓は大挙して庄屋の家に押しよせ、積み立てた穀類や金を返せと要求します。

しかしぐずぐず言っているので、夜になって蔵に押入り、金や穀類を運び出しました。このような打ち壊しが各地で起こり、浜松全土に広がりました。

「ああ…えらいことになった!」

水野忠精は自力で解決するのをあきらめ、後任の浜松藩主・井上氏にゆだねます。そこで井上氏の采配により、2200両を7年分割で返済することが決まりました。

そうして水野忠精が浜松城を出ていくと、極悪水野がいなくなったと、数日間にわたって村々で祝宴を行いました。通りすがりの旅人にも、酒がふるまわれました。

かくまでに、水野父子は嫌われ、憎まれ、恨まれていました。

嘉永4年(1851)2月10日、水野忠邦は三田の下屋敷にて息を引き取りました。享年58。謹慎が解かれたのは死の5日後でした。墓は茨城県結城市の旧万松寺跡にあります。

次の章「雄藩の改革

解説:左大臣光永

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