雄藩の改革

佐賀藩

天保期には水野忠邦が改革を行う前から、諸国の藩でも改革が行われました。中にも佐賀藩・長州藩・薩摩藩は改革に成功し、幕末に幕府をおびやかす勢力に成長していきます。

佐賀藩では天保元年(1830)鍋島直正が藩主となり、傾いた藩の財政の立て直しに乗り出します。徹底して支出を削る緊縮財政を行い、参勤交代の随員を減らし、ついに役人の三分の一をリストラしました。すごい!今の政府も公務員三分の一首にしてほしいですね。

また百姓が出稼ぎに来るのが農業没落のもとだとして、出稼ぎにきている農民を農村に追い返しました。ここはやってること水野忠邦と一緒ですね。

また人別改(戸籍)を強化し、農民への締め付けを強めました。また佐賀藩は福岡藩と一年交代で長崎の警護をやらされていたので、早くから軍事面には力を入れていたのです。そこで嘉永3年(1850)大砲製造所、翌嘉永4年(1851)反射炉を作って大砲を鋳造しました。

長州藩

長州では天保8年(1837)毛利敬親が藩主となります。その頃長州は他藩に9万2000貫目の借金(藩債)を抱えていました。

そこで敬親は藩士・村田清風を処理係に財政改革をまかせます。

村田清風は金主と相談した上で、総額9万2000貫目のうち約三分の一を無利息据え置きに、約三分の一を利息払の元金据え置きに、約三分の一を年賦借りにすることを認めさせます。ひとまず急場をしのいだわけです。

その一方で村田は藩士と農民に呼びかけ、藩の財政を立て直すために献金してくれと頼みます。

また清風は大坂に行く船がほとんど下関を通ることに目をつけ、下関に越荷方(こしにかた)という機関をもうけます。

大坂に届けられるはずだった積荷をひとまず越荷方が買い付け、大坂の相場を見て高値の時に売りに出す、という仕組みでした。また、積荷を担保に金貸しも行いました。

結果、長州藩は年平均5000両の黒字を生み出すことに成功しました。

薩摩藩

薩摩藩は財政難に悩んでいました。他藩からの借金(藩債)が500万両に上っていたのです。文政10年(1827)側用人・調所広郷(ずしょひろさと)が藩債処理役に抜擢されます。

調所は大坂・京都・ついで江戸の金主に対し、無利息にした上で1000両につき4両の割合で分割返済することを認めさせます。返済には250年かかる計算ですが、これでなんとか急場をしのぎました。

ついで調所は砂糖の専売を行います。奄美諸島の特産品である砂糖を藩で買い上げて、大坂・江戸で売ったのです。結果、年貢米収入の40倍の収入となりました。

また調所は幕府に無断で金貨を鋳造し、50万両の積立金を作りました。まあ普通に犯罪ですけどね…

後年、薩摩藩は軍事力を高め、ついには幕府を倒すに至りますが、それは砂糖の専売や貨幣の不法鋳造によって利益を蓄えていたからこそ、できたことでした。

で、問題の250年ローンは返したのかというと、返しません。明治維新の「廃藩置県」(明治4年(1871))により薩摩藩そのものが無くなり、返済はストップしました。なんと44年間しか返していません。詐欺ですな。

このように犯罪者と詐欺師が手に手を取って作り上げたのが「明治維新」というわけです。ありがたくて涙がちょちょ切れますね。

解説:左大臣光永