水野忠邦(四) 天保の改革(三)

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低物価政策

幕府の低物価対策について。

物価は、大坂では肥後米一石銀238匁の高値を示すも、同年(1837)秋の豊作予想を受けて10月には121.2匁まで下落しました。しかし味噌や、醤油、酒の値段は下がらず、ぐんぐん値上がりしていました。

その原因は、天保の大飢饉や大塩平八郎の乱といった社会不安。大坂市場への入荷量が減ったこと。生産者や無許可業者が直売りをすることなどがありました。

幕府は特に江戸の物価高騰は大問題と考え、対策を取りました。その対策とは…

なんと仕入れから小売まで、強制的に二割引させるというものでした。なんというか…空いた口がふさがりません。さらに価格を店頭表示させ、値引き下げがちゃんと実行されているか見ました。

また職人・日雇いの賃金を一律引き下げました。大工も石工も、発注元が幕府の規制で仕事を減らしている上に賃金まで減らされて、上がったりです。

借金の利子も強制的に引き下げました。困ったのは質屋です。これでは営業ができないといって閉店する質屋が相次ぎました。質屋が閉店すると困るのが武士や町人です。これでは生活できないとなりました。結局、幕府は借金の利子引き下げは緩めざるを得ませんでした。

考えてください。

ある日、あらゆるモノの値段、サービスの値段が二割引になったら?「安い!」最初は喜ぶかもしれない。しかし。あなたの給料も二割引です。しかも企業は二割引にして大損害ですから、損害を埋め合わせるために製品の質を落とし、人員削減するでしょう。結果、多くの人がリストラされ職にあぶれるということになります。

物価というものは需要と供給、市場の状況が複雑にからみあって決まるものです。お上が強制的に二割引させたから物価が二割下がるなんて単純なものではありません。てかそれでうまくいくなら、第二次世界大戦前のドイツのハイパーインフレなんて、起こってません。

こうしたことは今日中学生でも知っています。当時の役人の経済知識がいかに幼稚で遅れていたかが、ここに見て取れます。

(まあ現在の政府も、消費税をガンガン上げて、残業代をゼロにして死ぬまでこき使えば財政改革できると信じているわけですから、昔も今も似たようなものかもしれませんね…)

幕府はまた、それまでの銭相場を引き上げて、金一両が銭六貫500文としました。そして、その引き上げたぶんモノの価格を下げろと要求しました。

まあ話になりません。商人たちは表向きは値段を引き下げたふりをしながら、実際は元の値段で売りました。もしくは値段を引き下げるかわりに品質を落として自己防衛しました。そりゃそうだ。

京都ではこれ以上値引きをされてはたまらないと、岩城(いわき)・大丸・小橋屋(こばしや)などの大手呉服商は値札の付け替えと称して休業しました。三井もこれに習って休業しようとしましたが、幕府役人に止められて休業できませんでした。

このように乱暴かつ幼稚な低価格政策を行った結果、どうなったか?物価は下がりました。米・醤油・味噌は前年秋より10-20%下がり、特に塩は34%も下がりました。ところが、天保14年(1843)秋、水野忠邦が失脚すると、物価はまた上がっていきました。

つまり、幕府が市場原理を無視して強制的に押さえつけていただけです。天保の改革における低価格政策は、「ほとんど意味がなかった」と言っていいでしょう。

株仲間の解散

天保12年(1841)株仲間解散令が出されます。株仲間とは、業種ごとの組合のことです。たとえば油・綿・醤油・床屋など、業種ごとに株仲間がありました。これが自由競争をさまたげ、物価を引き上げているのだとして解散を命じたのです。かわりに、生産者や素人商人による直売を認めました。

これで自由競争がさかんになる。価格が下がる。幕府はそう考えました。しかし、そんなにうまくいきませんでした。

株仲間は幕府の手前、表面上は解散しましたが、裏では活動を続けました。たとえば株仲間のうち一つの店が幕府の言いつけどおり価格を下げると、周囲がさんざん嫌がらせをして価格を元にもどさせるという具合でした。

水野忠邦失脚後の嘉永4年(1851)、株仲間再興令が出され、かえって株仲間の数は増えました(明治維新で廃止)。

軍制改革

さて天保の改革は国内問題ばかりを扱ったわけではありません。松平定信時代の末期から、北方からはロシア、南方からはイギリス・アメリカが迫り、たびたび鎖国体制を脅かしていました。

さらに天保13年(1842)アヘン戦争に清が大敗北を喫しました。戦後の南京条約によって、つい先日(1997年)まで、香港をイギリスに取られていたのは周知のとおりです。

「日本もいつかやられるかもしれぬ」

水野忠邦は危機感をつのらせ積極的な富国強兵策を取ります。まずは鉄砲や大砲を近代的なものに作り変えることが必要でした。

長崎の砲術家・高島秋帆(たかしま しゅうはん)は、西洋諸国への見識が深く、前々から日本の軍備はダメだ。戦国時代とそう変わらない武器で、戦えるものではない。国防のためには、外国の技術を学び、大砲を鋳造するべきと説いていました。

水野忠邦は、高島秋帆を抜擢し、幕臣の江川英龍らを入門させ、鉄砲の鋳造や操練に当たらせました。江川英龍は、高島秋帆から学んだ技術をもとに、幕末に大砲を鋳造しました。伊豆の韮山反射炉は、江川英龍の指揮の下、大砲を鋳造した反射炉です。現在、産業遺産になっています。ちなみに東京都板橋区の高島平は高島秋帆の名から来ています。意外なところに名前が残ってるんですね。

江戸湾防備体制

国防への意識は高まっていました。アヘン戦争で清国が負けたこと。そして近々イギリスが開国を迫り日本に艦隊を派遣する計画があるらしいという話が、オランダ商館長を通じて伝えられたことで、いよいよ危機感が高まります。

そこで幕府は天保13年(1842)7月、異国船打払令を緩和します。異国船が日本に迫った時は、今までのように打ち払うのでなく、食糧・薪水を提供し、穏便に帰ってもらうとしました。

翌8月、江戸湾防備体制の強化に乗り出します。川越藩主・松平大和守斉典、忍藩主・松平駿河守忠固に命じて、相模および房総二カ国(上総・安房)の沿岸防衛に当たらせます。

同年12月、下田奉行所を復活し、あらたに羽田奉行所を設けて、江戸周辺の海岸防備を幕府が直轄する形としました。その一方で江川英龍に大砲を鋳造させ、砲術指南に当たらせました。保守派の反対は根強くありましたが、水野忠邦は断固、西洋式大砲を中心とした国防体制を整えていきました。

これら軍制改革・江戸湾防備体制は水野忠邦の失脚後も続けられ、幕末まで至ります。水野忠邦の政策が実を結んだ、きわめて稀な例と言えましょう。

農兵隊

国元の浜松では、足りない軍事力を農民で補うことを実施しました。農閑期の農民に、武器や鉄砲をもたせて兵力を補うのです。これまで幕府は百姓一揆や打ち壊しにおびえて農民に武器をもたせるなんてとんでもないという考えでした。そこからしたら180度の転換です。高杉晋作の奇兵隊のようなことを、水野忠邦は、すでに行っていたのです。これは水野忠邦の先見の明と言えましょう。

上知令

天保14年(1843)6月、水野忠邦の政治家生命をかけた上地令(あげちれい・じょうちれい)が発布されます。これは江戸城と大坂城周辺の大名・旗本領を召し上げ、幕府直轄領(天領)とする、というものです。

その目的は、実入りのいい土地を取り上げて幕府の財政再建をはかることにありました。また、幕領と私領が入り組んでいるのは、支配がゆるむ元であるし、国防上も好ましくないから、というのが理由でした。

しかしただ土地を取り上げるでは大名・旗本も納得しないので、500石以上の者には別の土地を与え、それ以下の者には蔵米を支給するとしました。しかし、そんなかわりの土地や蔵米程度では実入りのいい江戸城・大坂城周辺の土地にはかえがたく、大名・旗本は猛反発しました。

幕府内部にも上知令に反対する声が高まっていきます。土井利位(どい としつら)ははじめ水野忠邦に同調していましたが、大坂の肥沃な領土を取り上げられてはたまらないと困惑していました。そこへ各地で反対運動が起こったので、ついに反対派に転じます。

ついで御三家の紀州藩も上知令反対に回ります。紀州藩の飛地領である伊勢松坂は伊勢商人の根拠地であり、これを江戸に取られたら大損害と考えたためです。

その他、はじめは水野忠邦に同調していた者も上知令によって次々と離れていきました。ついに、「水野の三羽烏」の一人、鳥居 耀蔵(とりい ようぞう)まで水野忠邦を裏切り、反対派に回りました。大奥も敵に回りました。水野忠邦は政策の行き詰まりを認めざるを得ませんでした。

天保14年(1843)閏9月7日、将軍家慶により上知令は撤回されました。同13日、水野忠邦は老中を罷免されます。

解説:左大臣光永

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