水野忠邦(一)老中就任

本丸老中となる

天保5年(1834)3月1日、水野忠邦が本丸老中を拝命しました。41歳でした。

水野忠邦(1794-1851)。

寛政6年(1794)唐津藩主水野忠光の子として生まれ、文化9年(1812)19歳で唐津藩主に就任。しかしより強い権力を望み、浜松藩への国替えを願い出ました。

唐津藩は長崎警護という職務があるため、中央政界に関われないのです。一方、浜松藩主は石高は少ないものの、老中以下、中央の出世コースに乗ることができました。ために水野は国替えを願ったのです。

賄賂が功を奏して文化14年(1817)浜松に国替え。以後、大阪城代、京都所司代と出世コースをたどり、文政11年(1828)西の丸老中、

そして今回、天保5年(1834)本丸老中を拝命したのでした。

本丸老中となることは水野忠邦長年の夢でした。その夢がやっとかなったのです。感無量だったでしょう。

しかし水野忠邦には一つ心配事がありました。

ひどい吃り癖があったのです。そこであらかじめ老中首座・松平康任(やすとう)を通じて、こうこうこういうわけで、水野忠邦は多少吃るが、実用上は問題ないから、気にしないでくれと将軍家斉や世子家慶に伝えてもらいました。

天保8年(1837)3月には、勝手掛老中を拝命します。勝手掛老中とは、幕府の農政・財政を担当する役職です。水野忠邦の日常は、いよいよ多忙となり、読書や和歌も以前のように窘めなくなってきました。

しかし大変な時期に老中になったものです。

天保4年(1831)から全国的な飢饉で、特に7年は飢饉がピークに達した年です。巷には餓死者が溢れ、一揆・打ち壊しが多発していました。しかも、天明の大飢饉と違って、幕府の直轄地である幕領でも、一揆が起こっていました。幕府の収入はガタ下がりでした。

これは飢饉による影響だけではありません。そもそも農民から搾り取って武士を食わせるという江戸幕府の仕組みそのものが、もう限界に来ていることを示していました。

そんな中、起こったのが大塩平八郎の乱です。

次の章「大塩平八郎の乱

解説:左大臣光永