大塩平八郎の乱

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天保8年(1837)元大坂町奉行所与力で陽明学者の大塩平八郎が、門人を率いて大坂で武装蜂起しました。決起はわずか半日で鎮圧されましたが、元幕府の役人が、幕府の重要拠点である大坂で決起したことは、幕府にも世間にも大きな衝撃を与えました。

天保の飢饉

天保4年(1833)から天保8年に(1837)かけて、全国的な飢饉となりました。天保の大飢饉です。東北は特に悲惨でした。4-5割、津軽では9割も収穫が減りました。津軽領内に天保8年の餓死者、8万人と記録されています。

飢饉に伴い、全国で一揆や、打ち壊しが多発しました。また江戸でも大坂でも米価が高騰しました。

特に大坂は悲惨でした。

餓死者が市中にあふれ、大坂城の堀に身投げするものがあるので監視をつけるほどでした。

幕府はしかし江戸のほうが大事でした。天保8年に(1837)10代将軍家斉が隠居し、11代家慶が将軍となったのです。そこで将軍就任の儀式のために多くの米が必要となりました。

幕府は大坂に役人を送り、大坂の米を買い付けて江戸に送らせました。大坂市民の怒りの声はいや増しに増しました。

大塩平八郎の乱

大塩平八郎の家は代々、大坂東町奉行所の与力を務めました。平八郎自身も、14歳から与力見習いとなり、やがて正式な与力となって、いくつかの難事件を解決しています。

ところが、天保元年(1829)38歳で突如、与力をやめて隠居します。自分を可愛がってくれた東町奉行・高井山城守実徳(さねのり)が退職したせいとも言われます。

大塩平八郎は儒学の一派・陽明学の学者であり、中斎(ちゅうさい)と号していました。身長5尺5、6寸、顔は細く色白で、眼細くやや釣り上がり弁舌さわやかな美青年でした。若い頃から肺病病みであり、そのせいか神経質で、時に激情にかられました。

平八郎が東町奉行所をやめた後、くしくも天保の大飢饉が始まります。大坂には餓死者があふれました。そんな中、天保7年(1836)4月、老中水野忠邦の実弟にあたる跡部良弼(あとべ よしすけ)が大坂東町奉行に任命されました。

これはロクでもない男でした。

新将軍徳川家慶の就任にあたって、幕府は大坂の米を買い付けるために大坂に役人を送ってきました。跡部はそんなもの相手にしないようにと表面は言いながら、その裏では、幕府の役人と結託して米の買い付けをやりました。

さらに、一部の米商人と役人は、大坂市民が餓死しているのを尻目に毎夜、遊里で遊びまくっていました。

大塩平八郎は隠居後も、養子である格之助が与力を務めていたので、東町奉行所の動きはつかんでいました。

そこで嘆願します。

「どうか大坂の貧民を救ってください」

大塩平八郎の嘆願に対して返ってきた答えは、

「そのほう、隠居の身で口出しをするか。強訴の罪で処罰するぞ」

次に平八郎は三井・鴻池などの豪商に貧民救済のため六万両の借金を申し入れました。しかし、断られました。

「もはや、やらねばならぬ」

平八郎の信奉する陽明学は、「行動」を重んじます。理屈の上だけの学問ではダメなのです。

天保8年(1837)2月6日から三日間、平八郎は貧民1万戸に金1朱ずつ配りました。蔵書5万冊を売りはらって作った金でした。金一朱には檄文を添えました。悪徳商人に天誅を加えるのだ。われに味方せよと。

その間、平八郎は大砲・火薬を用意し、門人たちに軍事訓練を行い、武装蜂起の手はずを整えていきました。天保8年(1837)2月19日、新任の西町奉行・堀伊賀守利堅が市中巡見する際に挙兵する予定でした。

ところが、味方の一人が東町奉行・跡部良弼(あとべ よしすけ)に密告したため、計画は奉行所に知られてしまいます。そこで予定より8時間ほど早く行動を起こさなくてはならなくなります。

2月19日朝、天満橋の大塩邸に火をかけ、決起します。

「進め、進めッ」

一行は難波橋(なにわばし)を渡り、北船場(きたせんば)で鴻池など豪商の屋敷を大砲や火矢で焼き討ちしながら進みました。我も我もと300人あまりが反乱に加わり、大坂市中の五分の一を焼き払いました。この時の火災を「大塩焼け」といいます。

その先頭には、「救民」「天照皇太神宮(てんしょうこうたいじんぐう)」などと書いた旗印を掲げていました。とはいえ300人ではどうにもならず…

反乱はわずか半日で鎮圧されます。大塩平八郎はいずこかへと姿をくらましました。

それにしても。

鎮圧にあたった大坂の役人たちの慌てっぷりは、見苦しいものでした。跡部・堀の両奉行は馬から振り落とされ、「大坂天満の真中で、馬から逆さに落ちた時、こんな弱い武士見た事ァない、鼻紙三帖唯(ただ)捨た」といって市民からバカにされました。

大塩平八郎は養子の格之助とともに40日間、美吉屋五郎兵衛の店(大坂府大坂市西区靭本町)に潜伏していましたが、見つけられ、奉行所与力に取り囲まれると、火薬でもって爆死しました。

顔はぐちゃぐちゃに崩れ、判別もつかないほどでした。

翌天保9年(1838)9月、大塩平八郎以下17名の死骸は極刑として磔に処せられました。一年半も処分が長引いたのは、それだけ幕府にとって驚天動地のことで、どうやっていいか、わからなかったものと思われます。

一年半、塩漬けにさていたとはいえ、ぐずぐずに崩れた原型も留めない死体を、さらに磔にしたのです。異常なことでした。

乱後の影響

死後も平八郎を慕う声は多くありました。しかも平八郎によって家を焼かれた者の中にも「大塩様、大塩様」と慕う者がありました。死後間もなく大塩平八郎は伝説化され、芝居や講談で語られるようになります。

また、大塩平八郎の影響で、実際に武装蜂起する者もありました。桑名藩の飛地領である越後柏崎では、国学者・平田篤胤の門人・生田万(いくた よろず)が桑名藩の陣屋に斬り込みました。

また備後尾道・三原(みはら)、摂津能勢(のせ)などで「大塩門弟」と名乗る者が決起し、一揆や打ち壊しを行いました。

解説:左大臣光永

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