松平定信(四)尊号事件

尊号事件

松平定信の時代、寛政元年(1789)から寛政5年(1793)にかけて、幕府と朝廷との間で尊号事件というのが起こりました。これは寛政の改革とは関係ありませんが、江戸時代の幕府と朝廷の関係を知る上で注目すべき事件です。

家康以来、代々の徳川将軍はタテマエ上、尊王でした。権威としての天皇朝廷は敬ってきました。しかし政治的実権は渡さないという考えでした。

家康は慶長5年(1600)京都所司代を設置して天皇と公家の動きを監視しました。また元和元年(1615)「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を発布して、天皇と公家のふるまいを事細かに規定しました。

家康以後も、幕府は天皇・朝廷の権威は敬いながらも、政治的実権は握らせないという姿勢でした。そのため江戸時代の朝廷はわずか2万石を領有するのみでした。貧乏でした。

そういう幕府と朝廷の関係の中、起こったのが尊号事件です。簡単に言うと、「光格天皇が父典仁(すけひと)親王に上皇の尊号を贈ろうとしたが幕府が反対して、できなかった」という事件です。

安永8年(1779)118代後桃園天皇が22歳で跡取りの無いままお亡くなりになります。ここで直系の血筋が途絶えましたので、閑院宮家の兼仁親王を即位させました。これが第119代光格天皇です。

閑院宮家 光格天皇
閑院宮家 光格天皇

閑院宮家とは宝永7年(1710)、新井白石の提案で作られた、新しい宮家です。第113代東山天皇の第6(第7とも)皇子・直仁(なおひと)親王を祖として作られました。いざ天皇家の血筋が途絶えた時の、いわば保険です。

閑院宮邸跡
閑院宮邸跡

そして閑院宮家創設より70年後、恐れていた皇統断絶は実際に起こったのです。そこで閑院宮家の皇子である兼仁親王を光格天皇として即位させたわけです。

ちなみに光格天皇以降、閑院宮家直系の天皇が代々即位し、平成の今日まで続いています。

ところで、光格天皇の父典仁(すけひと)親王は天皇ではなく一親王に過ぎません。光格天皇は「親王の子」という立場になります。親王の子という立場は朝廷内でいろいろと制約がありました。関白、大臣より下に座らなければならないなど、

そこで光格天皇、お考えになりました。父典仁親王に太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうと。

これは光格天皇の純粋な親孝行から出た部分と、朝廷内の制約を逃れたいという実際的な部分があったでしょう。

ところが、松平定信がこれに反対します。

「上皇とは退位した天皇のこと。天皇になっていない者を上皇と呼ぶのはおかしい」

確かに正論ですが、そこに噛みつかなくってもって気もするんですが…。

朝廷側では困ってしまって、先例を調べまくりました。すると、二つ先例があったんですね。承久の乱の後に即位した後堀河天皇と、応仁の乱の後に即位した後花園天皇。どちらも、その父親が天皇になったことが無いのに上皇の尊号が贈られていました。

それ見たことか、先例があるではないか。朝廷は嬉々として幕府につきつけます。しかし!松平定信の答えは、

「それらは承久の乱、応仁の乱の後のことで非常時の話だ。平時には適用されない」

そんなこと言うんですね。

寛政元年(1789)から寛政5年(1793)にかけて、幕府と朝廷の間で、尊号を贈りたい、いやダメだと書状のやり取りが行われます。

しかし松平定信はガンとして尊号を贈ることを認めませんでした。

朝廷では、じゃあもうよい。幕府の許可などいらぬわ。勝手に尊号を贈ってしまえ。異議なし。もともとは天皇の親孝行から出た罪の無いこと。それをあれこれ言うのが筋違いなのじゃ…という流れになります。

松平定信はこの動きをいち早く察知します。京都に使者を送り、尊号を贈ろうと主張する三人の公卿、中山愛親(なるちか)・正親町公明(おおぎまち きんあき)・広橋伊光(ひろはし これみつ)を江戸に召喚するよう、京都所司代を通して告げたのです。

朝廷は仕方なく、尊号宣下は諦めますが、それでも幕府は三人の公卿を許しませんでした。結局三人は江戸に下り、松平定信から直接取り調べを受け、そのうち二人が閉門・逼塞を命じられました。家に閉じこもっていろという処分です。

こうして六年間にわたる尊号事件は終わりました。

光格天皇が父典仁親王に上皇の尊号を贈ろうとしたことは、松平定信によって完全に阻まれてしまったわけです。

朝廷をコントロール下に置こうという幕府側の意図が露骨に出た事件です。同時に、松平定信の実より名を重んじる、ガチガチなところも出ていると言えるでしょう。

解説:左大臣光永