黒船来航(ニ)

今日は。左大臣光永です。7月最初の日曜日、いかがお過ごしだったでしょうか?

さて本日は「黒船来航(ニ)」です。

嘉永6年(1853)ペリー率いるアメリカ艦隊が来航し、アメリカ合衆国大統領フィルモアの国書を手渡します。翌嘉永7年(1854)日本とアメリカの間に日米和親条約がむすばれ日本は否応なしに国際社会の中に放り出されることとなりました。

一夜明け、ゴミのような人だかりとおぼえた方も多いと思います。

前回に引き続き、ペリー来航当時の様子を詳しく追っていきます。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Edo_Kurobune2.mp3

前回の「黒船来航(一)」とあわせて、お聴きください。
http://history.kaisetsuvoice.com/Edo_Kurobune1.html

6日6日 ペリー艦隊の威嚇

ペリー来航から3日目の嘉永6年(1853)6月6日。

この日も、ひどい騒動になりました。

ぺリー艦隊が江戸湾内部まで入ってきて、しきりに測量を始めたのです。各藩の警備船が戻るよう呼びかけましたが、無視されました。

浦賀奉行筆頭与力・香山栄左衛門はサスケハナ号に赴き、これはどういうことかと抗議します。

この時もぺリーはあらわれず、参謀が答えました。

「万一交渉がならなかった時のためだ。その時はふたたび大艦隊を率いて江戸に来なくてはならない。その時のために調査をしているのだ」

幕府首脳部は大いに頭を抱えます。

「どうしたらよいのだ!」
「外国船など打ち払えばよい」
「いや、勝てませんって」

そんな感じで、ちっとも話がまとまりませんでした。

結局、幕府は要求をのむしかありませんでした。6月6日夜、筆頭与力・香山栄左衛門がサスケハナ号におもむき、久里浜にて国書を受け取ることを伝えます。

6月9日 国書を受け取る

6月9日朝、久里浜にて、ペリーおよび水兵・海兵隊・軍楽隊あわせて300名あまりが船を下り、日本の地をふみます。

ペリーは両脇に黒人を従えていました。日本人をビビらせるためでしょう。

ドーン、ドーン、13発の祝砲が打ち上げられます。

国書の授与は久里浜の海岸に設けられた臨時の応接所で午前8時から行われました。

ペリーから、浦賀奉行戸田氏栄・井戸石見守弘道へアメリカ大統領フィルモアの国書が手渡されます。そのほか、ペリー提督の信任状、ペリーから将軍に当てた二通の信書も添えられていました。

日本からも書類を一通渡します。

「これは何か」
「受領書です」

約20分間の式典の間、通訳を通して交わされた会話はこれだけだったそうです。この日はものすごく暑く、(ほんとか嘘かわかりませんが)警備の足軽が40人ばかり熱射病で倒れたといいます。もしほんとなら、足軽どんだけ虚弱なんだっていう…

大統領の国書は要するにこういうことでした。

「わが強大なる艦隊をもってペリー提督を派遣した目的は、友好と通商、石炭と食糧の供給、およびわが避難民の保護である」

式典の後、ペリーは言いました。

「我々は二三日中に江戸を去るが、来年の四月か五月にまた戻る。それまでに返事がほしい」

「また四隻の軍艦で来るのか」

日本側がそう尋ねるとペリーは、

「いや、今度は全艦隊で来る」

とにかくこれで一応は終わりになりました。やれやれ戦争にはならないらしい。ホッと胸をなでおろす江戸市民。ところが、まだ続きがありました。

6月10日 ペリー怒る

「なんなのだこれは!」

ペリーは激怒しました。渡された受領書の内容に、です。

「国法を曲げて大統領の国書をお受け取りいたしました。
だから、すみやかに立ち去ってください」

日本側としては悪気は無かったのですが、その天然な書きっぷりがペリーのカンに触ります。

「少し日本人にわからせてやらねば!!」

翌6月10日夕刻近く、四隻の戦艦は突如碇を上げ、江戸湾内に猛スピードで入ってきました。そのうち二隻は羽田沖まで進み、夜になって大砲をぶっ放ちました。

「なんだこれは!どういうことだ!」

市民も幕閣も、大騒動です。すぐさまサスケハナ号に問い合わせると、

「来年の春によい返事がもらえない時は大艦隊を品川沖に停泊させ直接大君にお目にかからねばならない。これはその下見である」

との返事でした。なんだ脅しか。ホッ。幕閣はひとまず胸を撫でおろしました。

6月11・12日 見物さわぎ

翌6月11日もえらい騒ぎとなりました。戦争にはならない。大丈夫だ。それなら黒船を見てみたいという者が横浜に押し寄せました。中には小船に乗って黒船の近くまで漕いでいって観察する者、水兵と煙草を交換する者もありました。

翌12日。ペリー艦隊は浦賀を出発します。風が無くて帆船は動けないので、サスケハナがサラトガを、ミシシッピーがプリマスを曳航して、江戸湾を去っていきました。

この日もまた見物人で大賑わいでした。弁当を持参する者。茶屋を出して一儲けする者。最後まで、えらい騒ぎでした。

泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船) たった四杯で夜も寝られず

という狂歌は有名ですが、ほかにも、

陣羽織を 異国の波で 洗ひ張り 返してみれば 裏が(浦賀)たいへん

アメリカが 早く帰って よかったね また来るまでは すこしおあいだ

嘉永6年から嘉永7年の間

しかし安心はできませんでした。ペリーは来年また来るのです。万一戦争になった時のために、守りを固めなければなりませんでした。

諸国の武士たちは江戸湾の警備に駆り出されました。品川には浜川砲台といって土佐藩によって計八門の大砲が置かれました。当時二十歳であった坂本龍馬も、浜川砲台の警護任務につきました。

そんな中、6月22日、12代将軍徳川家慶が亡くなり、家定が13代将軍となります。

7月。幕閣は江戸城に諸国の大名を集めて意見を求めます。

「今回の事は天下の一大事。実に容易ならざることであるから、たとえ法を曲げても、何か考えがあるなら申せ」

すなわち、幕府のことは幕府だけで決めていくという原則を曲げて、幕府が天下に意見を求めたのでした。旗本・大名・藩士・御家人はもとより、江戸の町人からも意見を受け付けました。こんなことは徳川幕府はじまって初めてのことでした。

それで、下級武士や町人は「俺たちも意見していいんだ」と思うようになります。これが尊王攘夷志士の増加、そして討幕へとつながっていくわけです。

日米和親条約

翌嘉永7年(1854)1月、ペリーは9隻の軍艦を率いてふたたび来航します。「4月か5月にまた来る」と予告してあったのに、だいぶ早く来ました。フェイントをかけたんでしょう。

2月10日から三週間の協議の末、12か条からなる日米和親条約が締結されました。その主な内容は、

・下田・函館のニ港を開港し、薪水・食糧・石炭を給与する
・下田・函館の周辺にアメリカ人の遊歩区域を設ける
・難破したアメリカ船の乗員や積荷は下田・函館に届け、アメリカに引き渡す
・下田に外交官を駐在させる

「日本が開国した」

その情報はすぐに世界中に広がります。ならば我も我もと、まずイギリスと、ついでロシアとも和親条約が結ばれました。

次回は、徳川吉宗(ニ)をお届けします。お楽しみに。

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解説:左大臣光永