日米和親条約

嘉永7年(1854)3月、日本とアメリカの間に12箇条からなる日米和親条約が結ばれます。下田・函館のニ港を開港し、薪水・食糧・石炭を給与することなどが定められました。ついでロシア・イギリス・オランダとも和親条約が結ばれ、日本はいやおうなく国際社会の中に投げ込まれることとなりました。

日米和親条約

嘉永6年(1853)6月、江戸湾を後にしたペリーはいったん沖縄に入り、貯炭場(石炭をたくわえておく施設)の設置・産物取引所の開設などの要求を着きつけます。ついで南シナ海方面に遊弋していましたが、安政元年(1854)1月、沖縄に戻りました。

翌嘉永7年(1854)1月、7隻からなるアメリカ艦隊が伊豆沖に出現。正月16日、浦賀沖を通過。羽田沖まで進み、江戸市街を遠望しました。

「4月か5月にまた来る」と予告してあったのに、だいぶ早く来ました。フェイントをかけたことと、イギリス・フランス・ロシアからの干渉があったので、先を越されまいと急いだためです。

嘉永7年(1854)2月10日、第一回の交渉が横浜で行われました。幕府からは林大学頭韑(あきら)・町奉行井戸覚弘(さとひろ)・目付鵜殿長鋭(うどの ながとし)らが派遣されました。当初、日本側は将軍の代替わりを口実に、のらりくらりと解答を引き伸ばす策に出ました。しかしペリーには通用しませんでした。2月10日から三週間、数回にわたる協議の末、嘉永7年(1854)3月3日、12か条からなる日米和親条約が締結されました。その主な内容は、

・下田・函館のニ港を開港し、薪水・食糧・石炭を給与する
・下田・函館の周辺にアメリカ人の遊歩区域を設ける
・難破したアメリカ船の乗員や積荷は下田・函館に届け、アメリカに引き渡す
・下田に外交官を駐在させる

ペリーの目的はひとまず達成されました。日本が長く維持してきた鎖国体制はここに破られ、日本は開国したのでした。もっともこれは通商条約ではなく、最低限「開国した」というだけでしたが、ここまで引きだせただけでも、ぺリーは満足でした。

通商条約をつきつけるのは、次の段階にしたほうがよい。ペリーはそう判断しました。

和親条約締結までの間、日本とアメリカの間にさかんに贈り物のやり取りが行われました。ペリーの贈った汽車の模型は、実物の3分の2の大きさでした。

横浜村の応接所裏手の麦畑の中に線路を敷設して走らせました。大人が乗るのはムリがありましたが、一人の幕府役人がどうしても乗るといってきかず、ついに乗ったまま汽車は走りだし、屋根の上の役人は怖がったり、喜んだり、大騒ぎしました。その様子はペリーの『日本遠征記』に活き活きと描かれています。

ペリーは条約を締結すると下田に赴き、ついで函館に行って視察しました。それから下田に戻りました。その際、下田・函館二港の開港に関する具体的な取り決めをした、下田追加条項13箇条が締結されました。ここまですませると、ペリー艦隊は琉球に去っていきました。

日露和親条約

アメリカと和親条約を結んだ以上、ほかの列国も黙っていませんでした。ロシア使節プチャーチンは長崎にあって条約締結を日本に求め、条約の草案まで作りました。

しかし嘉永7年(1854)正月8日、プチャーチン艦隊は長崎をいったん退去します。クリミア半島の情勢が悪化していたためです。嘉永六年(1853)からロシアとトルコの間で戦争になり、嘉永7年(1854)3月には、イギリス、フランスがトルコを援助して、ロシアに宣戦布告しました。

以後、2年半にわたってクリミア戦争は続きます。プチャーチン艦隊はクリミア戦争のあおりを受けていったん長崎を退去したものの、嘉永7年(1854)10月、下田に入り、長崎での交渉を続けました。11月に改元あって、安政元年(1854)12月21日、下田長楽寺にて、八箇条からなる日露和親条約が締結されました。

内容は日米和親条約と大差ありませんが、第二条で日本とロシアの国境が定められました。千島方面は択捉島と得撫島の間、樺太は、「境界を分けず、これまでのしきたり通り」としました。

第八条では、両国人が相手の国で犯罪を犯した場合には、本国の法律で裁かれることが定められました。つまりロシア人が日本で犯罪を犯した場合、日本の法律が適用されず、ロシアの領事によって裁かれることになります。いわゆる領事裁判権の先駆けです。ロシア領事がロシア人の犯罪者をまともに裁くとは考えられませんので、これは日本側に一方的に不利な条件といえます。

日英和親条約

安政元年(1854)閏7月15日、イギリス東インド指令長長官スターリングが三隻の軍艦を率いて長崎を訪れ、条約調印を迫りました。

当時、イギリス・フランスはロシアとクリミア戦争の最中です。それでイギリスは、ロシア船舶を監視するため、イギリス・フランスの艦隊が日本の港に寄港できる権利を要求しました。

日本は、従うほかありませんでした。同年8月23日、日英和親条約が締結されます。長崎・函館の開港などが定められました。

日蘭和親条約

オランダも黙っていません。うちも和親条約を結びたいと要求してきました。日本は、従うほかありませんでした。安政2年(1855)27箇条からなる日蘭和親条約が結ばれました。

幕府の国防強化・海防強化策

こうして安政元年(1854)から安政2年(1855)にかけて、日本はアメリカ・ロシア・イギリス・オランダと立て続けに和親条約を結ぶはめになりました。

こうなった上は、軍事力を強めて、欧米列強と渡り合えるようにしなくてはいけない。老中安倍正弘(あべまさひろ)は、国防強化・海防強化は急務と考えました。

海軍伝習所

安政2年(1855)6月、長崎に海軍伝習所を設置します。オランダ人講師を招き、船の操練・砲術・陸上教練などを教えました。オランダ船スームビング号をもらいうけ、「観光丸」と名付けて、この船をつかって実地訓練しました。ここから日本の海軍が始まったといえます。

海軍伝習所では幕臣だけでなく、藩士も生徒として受け入れました。これは幕府としては思い切ったことでした。勝麟太郎や榎本武揚も海軍伝習所に学びました。

ただし海軍伝習所は安政6年(1859)、閉鎖されています。攘夷論により外国人を教師にするのはけしからんという意見が出たことや、オランダだけを贔屓にするといってアメリカ・フランスから反発が出たこと、幕府の財政難などが理由でした。

講武所

安政3年(1856)江戸築地に「講武所」を設置しました。旗本・御家人の子弟に、剣術・槍術・砲術を教えました。

蕃書調所

翌安政3年(1856)2月、「洋学所」あらため「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」を江戸九段下に開設しました。洋書の翻訳・印刷・出版、洋学教育を行いました。ここでも幕臣だけでなく藩士も生徒して受け入れました。

品川沖台場

品川沖台場は、嘉永六年(1853)6月ペリーが一度目に来日した後、米国艦隊の襲撃に備えて着工されました。はじめ11基の台場の建設が予定されましたが、幕府は目下財政難でした。それで諸国の大名に命じて金持ちに献金させたり、江戸市民にも献金を呼びかけました。結局、第一・第二・第三・第五・第六台場は完成しましたが、第四台場と第七台場は建設途中で中止。第八台場以降は着工前に中止となりました。

韮山反射炉

また品川台場に置く大砲の原料となる銑鉄(せんてつ)を溶解するため、伊豆韮山に韮山反射炉が造られました。

熱や炎を反射して銑鉄を溶かしたことから、反射炉といいます。

反射炉のまわりには、砲身をくりぬく錐台《すいだい》小屋、仕上げを行う御筒仕上小屋《おんつつしあげごや》、鍛冶小屋などがあり、大砲を作るための一連の工程をすべてここで行えるようになっていました。

明治に入り、工場は廃止されますが、二基の反射炉は保存され、現在の伊豆の国市のシンボルとして観光客を集め続けています。

次回「吉田松陰の下田踏海事件」に続きます。

解説:左大臣光永