三代家光(十一)家光から家綱へ

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家光の最期

もともと家光は体が丈夫でなく病気がちでしたが、慶安3年(1650)からは本格的に病の床に着きました。公式な行事もしだいに顔が出せなくなります。朝廷から勅使が派遣され、寺社では病気平癒の祈祷を捧げましたが、病は悪化していきました。慶安4年(1651)4月20日、江戸城本丸にて亡くなります。享年48。

悲しまじ 悦びもせじ とにかくに
終(つい)には覚(さ)むる 夢の世の中

この時、後を追って家臣の堀田正盛・阿部重次(あべ しげつぐ)らが殉死しています。

家光の遺骸は遺言により寛永寺毘沙門堂に移され、その後日光の大子堂(慈眼堂)の近くに廟堂を立てて葬られました。

家光の死を受けて子の家綱が6月13日、継ぎ目の儀式を済ませ、8月18日、江戸で征夷大将軍の宣下を受けました。

家光から家綱へ

徳川家光。

幕府草創期にあってさまさまな幕府の仕組みを整え、江戸の町を整備し、また祖父家康を深く信仰し、日光東照宮の大改築を行った徳川家光。

歴代の徳川将軍の中でもまず名君と言って名の挙がるのが家光です。その家光が亡くなった。嘆き悲しみの声は天下に満ちました。

跡を継いで四代将軍となったのは家光の子・家綱。この時11歳でした。

11歳で政治はできないので、家光の弟の保科正之が家綱の補佐役となります。また大老の井伊直孝・酒井忠勝(さかい ただかつ)、老中の松平信綱・松平乗寿(まつだいら のりなが)・阿部忠秋(あべ ただあき)など、優秀な官僚が家綱体制を固めました。

家光の没した直後、老中井伊直孝・酒井忠勝らが大名たちを集めて言いました。

「お世継ぎの家綱さまは11歳であらせられる。いにしえより言うではないか。幼君の時は国を傾けようとする輩があらわれると。各々方にも、もし天下を狙う野心があれば、今が絶好の機会であろうぞ」

これに対して保科正之と松平光通(みつみち)が進み出て、

「万一、幼君だからといって天下を覆そうとする輩がいれば、我々が叩き潰して、御代はじめのご祝儀としましょう」

そう言ったところ、大名たちも、

「我々も同じ所存です」

そう答えたと伝えられます(『武野燭談』)。

解説:左大臣光永

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