三代家光(六)御代始めの御法度
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秀忠薨去
大御所徳川秀忠は寛永8年(1631)から病気がちになります。朝廷や院・摂家・公家から見舞いの使者が江戸城を訪れ、伊勢神宮をはじめ神社・寺院で病気平癒の祈祷がされましたが、病状は悪化していきます。
同時に秀忠は眼病も患い、ついに片目が見えなくなってしまいました。なんとか年は越しますが、寛永9年(1632)正月24日、秀忠は江戸城西の丸にて帰ら人となりました。享年54。墓は芝増上寺にあります。
御代始めの御法度
寛永9年(1632)正月、大御所徳川秀忠が亡くなると、いよいよ本格的に三代将軍・家光の時代に入っていきます。
家光はその御代はじめに、容赦のない仕置を行います。
寛永9年(1632)5月22日、
肥後54万石国主・加藤忠広は江戸参府の途上、品川宿にて入府を止められます。
「いったいこれは何事でござりますか」
「とにかく、池上本門寺まで参られよ」
池上本門寺は日蓮終焉の地に建てられた寺院です。そこで加藤忠広が稲葉正勝より告げられた言葉は!
「加藤家は改易」
「な!何とおっしゃいました!!
いきなり改易などと…わけを、おきかせください」
「うむ。そのわけであるが…」
改易の理由はこうでした。
一つ。加藤忠広の嫡男・光広が諸大名の花押のある謀反の連判状を作って遊んだこと。
一つ。忠広は江戸で生まれた息子とその母を無断で国元に返したこと。
これは表面上の理由ですが、この前年より加藤忠広は、「狂気」の噂を諸大名より立てられていました。
徳川家光はその噂につけこみ、自分の御世始めに豊臣系の大大名である加藤家をつぶすことで、諸大名への力のアピールをはかったようです。
その後、加藤忠広は出羽国丸岡に一代のみの一万石を与えられ、家臣20名ほどともに住まい、22年後に没しました。その間、忠広は歌を詠み管弦の遊びに興じ文学を愛し酒を飲み、風流三昧の暮らしを送ったようです。
加藤家なき後の肥後には、小倉から細川忠利が移ることとなりました。
忠長の行状
加藤忠広の次は、家光の弟・駿河大納言・徳川忠長が領地を没収され、上野(こうずけ)高崎(たかさき)に逼塞させられました。
徳川忠長は兄家光から駿河・遠江の二国を与えられ、「駿河大納言」と呼ばれていました。また江戸城北の丸に屋敷を持ったことから「北丸様」とも呼ばれていました。
忠長は幼い頃、家光と将軍位を争った言わばライバル同士とはいえ、家光は忠長を信頼し、家光政権の柱と考えていました。
ところが。
母お江与の死後、忠長には奇矯な行いが目立つようになります。
辻切りをしたり、家臣を殺したり、禿を犬に食わせたり、女を酒責めで殺したりもしました。
家光のもとには忠長の悪い行いについて、知らせが届いていました。
「困ったものだ…」
溝が深まっていく兄弟の関係。
徳川忠長の最期
家光は何度も忠長をいさめますが、そのたびに忠長はわかりましたと一応返事はするものの、悪い行いは改まりませんでした。寛永7年(1630)から家光は忠長に甲斐蟄居を命じています。
翌寛永9年(1632)正月に秀忠が亡くなりましたが、忠長は甲斐に蟄居されたままで、父親の死に目にも逢えませんでした。
そして秀忠が死んだ寛永9年の10月、家光は諸大名に言い渡しました。
忠長の駿河・甲斐の領土を没収し、上野高崎に逼塞させると。
表向きの理由は、「駿河大納言忠長は心が直くない」ということでしたが、子供の頃から将軍候補として対立し、その後も何かと関係がぎくしゃくしていたことが、最終的にこのような形となったのでしょうか。
翌寛永10年12月6日、忠長は幽閉先の上野高崎で自害しました。享年29。
外様大名加藤忠広の改易と、徳川一族の忠長の改易。これらは家光の将軍直後に行われたことでした。家光は加藤忠広、徳川忠長を改易することによって、余は容赦しないぞ。たとえ大名でも、徳川の身内であっても、潰す時は徹底して潰すからなと、強い姿勢を示したのかもしれません。
沢庵宗彭の赦免
一方で家光は、幕府と朝廷の友好関係を望みました。父秀忠の時代、紫衣事件で大徳寺の沢庵宗彭(たくあん そうほう)が出羽国に配流となっていました。寛永9年(1632)家光は沢庵の罪を許し、江戸に呼び戻します。
「そなたと父とは何かと確執があったが…
そなたは余の剣術の師・柳生宗矩(やぎゅう むねのり)の禅の師である。
ならば余にとっての師も同じこと。
過去のいきさつは忘れ、余を導いてはくれまいか」
「そんな、上様、もったいのうございます。
もとより沢庵、そのつもりです」
その後、沢庵は家光に重く用いられます。
寛永15年(1638)家光により品川に東海寺が開かれると、沢庵は開山として迎えられ、この東海寺で晩年を送りました。
保科正之 会津松平家初代となる
ある時、家光は鷹狩の途中、目黒の成就院という寺で休憩しました。身分を隠して、それとなく尋ねました。
「住職、今度の将軍をどう思う」
「酷いお方ですな」
「何が酷い?」
「弟君の保科正之さまのことでございます。将軍さまの弟君であらせられるのに。ずいぶん貧しい暮らしをしておられる。ご身分の高い方々はご兄弟の間でも薄情なものですな」
「待て。待て待て住職。それは何の話だ…」
「保科正之さまは、間違いなく二代将軍秀忠さまの御子でございますぞ!」
「なっ…!」
家光の父秀忠は大の恐妻家でした。家光の母であり正妻であるお江与に頭が上がりませんでした。妾が子でも産もうものなら、殺されてしまう危険がある。そこで秀忠は生まれた子をひそかに信州の大名・保科家の養子に出していたのでした。
家光は住職の話ではじめて、保科正之がわが弟であったことを知りました。
「弟よ…今まで苦労をかけた」
しみじみ感じ入った家光は、保科正之を信州高遠藩2万石から出羽国山形藩20万石を経て陸奥国会津藩23万石に移しました。会津松平家の始まりです。
保科正之は家光に深く感謝し、家光・家綱二代にわたり徳川家を支えました。その後も会津松平家は家訓を守り徳川に尽くし続けました。幕末に新選組を取り仕切ったことで知られる松平容保(まつだいら かたもり)も、この会津松平家から出ています。
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