三代家光(四)紫衣事件
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紫衣事件
寛永4年(1627)7月、宗教界をふるわせた紫衣事件が起こりました。紫衣とは位の高い僧や尼の着る、紫の法衣や袈裟のことです。紫衣は宗派を問わず、朝廷の勅許によって僧に下されるものでした。僧に紫衣を許すことは朝廷の収入源となっていました。
朝廷を骨抜きにすることをはかる幕府は、この紫衣勅許に制限を加えてきました。徳川家康の「禁中並公家諸法度」では、朝廷がむやみに紫衣や上人号の勅許を出すことを禁じています。
しかし、時の後水尾天皇は反骨精神にあふれたお方でした。
「なんの。幕府の言いなりになってなるものか」
後水尾天皇は幕府に何の相談もせず、十数人の僧侶に紫衣勅許を与えます。
幕府としては黙っていられませんでした。
「この頃紫衣勅許が濫発されている。よって元和元年(1615)以降の紫衣と上人号は、取り消す」
こう宣言して、家光は京都所司代板倉重宗に命じて法度違反の紫衣を取り上げさせます。
後水尾天皇は猛反発なさいました。
「こんな非道が許されるものか!」
また紫衣を無効とされた寺社も猛反発しました。中にも大徳寺の沢庵宗彭(たくあん そうほう)・玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)・江月宗玩(こうげつそうがん)らは朝廷に同調して、京都所司代板倉重宗に抗議の書を差出しました。
前将軍徳川秀忠は、この抗議書を金地院崇伝に見せて意見を聞きます。
「崇伝、どうしたものか」
「このような抗議、認められるものですか」
「うむ。そうであろう」
寛永6年(1629)幕府は沢庵らを島流しにしました。あるいは出羽に、あるいは陸奥に流されました。
「な、ななな、な…」
後水尾天皇は激怒されます。
「ええいっ!なんでも幕府の言いなりか!」
しかし、いくら腹を立ててもどうにもなりませんでした。政治も軍事もすっかり幕府が握り、朝廷には昔日の力はありませんでした。後水尾天皇ができる唯一の抗議は、譲位することでした。
「ご譲位。そんな、それはしばしお待ちを」
前将軍秀忠は引き留めますが、結局、後水尾天皇は寛永6年(1629)11月8日、女一宮に譲位します。奈良時代の称徳天皇以来、実に859年ぶりの女帝・明正天皇です。
それでも幕府への不満のおさまらない後水尾上皇は、ついに髪をおろし、法皇となられました。幕府のしめつけが年々強くなり朝廷はないがしろにされていく。その現状に対しての、せめてものご抗議でした。
後水尾天皇は幕府にとって、扱いづらい駄々っ子のようでした。後水尾天皇が幕府に無断で譲位した時、徳川家光は腹を立てて、後鳥羽上皇のように隠岐島に流そうかと言った…などという俗説ですが、そんな話まで伝わっています。
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