三代家光(一)家光とお福
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家光誕生
徳川幕府三大将軍 徳川家光は、慶長9年(1604)7月17日、二代将軍徳川秀忠の次男として江戸城に生まれました。母は浅井長政の三女・お江与の方。
家光以前に秀忠には長男がありましたが、幼くして死んでいます。よって家光は秀忠の嫡男として徳川宗家の唯一の後継者として生まれたわけです。
家光が生まれた時、父秀忠は江戸城に、祖父家康は伏見城にありました。家康はこの前年の慶長8年(1603)征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いたばかりであり、江戸と京都をたびたび往復している状態でした。
すぐさま使者が伏見に飛び、男子誕生の知らせを家康にもたらします。
「よくやった!」
家康はたいそう喜び、自分の幼名と同じ竹千代と名付けました。
お福
三代将軍徳川家光を育てることに大きな役目を果たしたのが、お福、後の春日局です。
お福は明智光秀の家臣・斎藤利三(さいとう としみつ)の娘として生まれました。父斎藤利三は本能寺の変の後、捕らえられ、処刑されます。その首は明智光秀の首とともにさらされました。
その後、お福は各地を転々とした後、小早川秀秋の老臣・稲葉正成(いなば まさなり)に嫁いで、ようやく落ち着きを得ました。
お福は稲葉正成との間に、後に徳川家光の年寄の一人となる稲葉正勝など、三人の子をもうけています。
小早川秀秋は関ヶ原で石田三成を裏切って手柄を立てますが、これは稲葉正成のすすめによるところが大きかったです。関ヶ原の合戦後、小早川秀秋は大大名となりますが、跡取りがなく、小早川家は断絶。稲葉正成も浪人となってしまいました。
乳母となる
お福がどうやって家光の乳母になったかは不明です。乳母募集の立て札を見て自分で申し込んだとも言いますが、さすがに何かのツテが無いとムリでしょう。家康は、お福の父が明智光秀の家臣斎藤利三であり、山崎の合戦の後処刑されたことを聞いて、おおいに同情としたことでしょう。
いずれにしても、お福は家光の乳母になるにあたって、夫稲葉正成と離婚します。浪人後はヤケになって、飲んだくれて、お福に暴力をふるっていたようです。
少年時代の家光
少年時代の家光について伝える史料は少ないですが、『三河物語』には、世間の人の噂として
物をものたまはず、人に御言葉をかけさせられ給ふ御事もなくして、何共、御心之内を知れず、いかにとしても、御代に就かせられ給ふ御事いかがあらん
『三河物語』
とあります。すなわち物も喋らず、話しかけられることもなく、どうにも心の内が知れない。徳川家の家督を次ぐことはどうしたものであろうか。
しかし『三河物語』の作者大久保忠教は、世間はこう言うが、家光公の幼い頃のありようは、家康公の祖父で三河一国を統一した清康公のそれとそっくりだ。まことに家光公は素晴らしいと褒め称えています。
松平伊豆守信綱
後に家光の右腕として「知恵伊豆」と呼ばれる松平伊豆守信綱は、家光が生まれた時から仕えました。その時、信綱は9歳。名を長四郎といいました。11歳の時の逸話があります。
ある時、秀忠の正室・お江与の方の御殿にスズメが卵を産みました。
幼い家光がそれを見て、長四郎に言います。
「あれを取ってまいれ」
「殿、さすがに昼のうちは無理ですよ。夜になってからやってみます」
「うむ。たのむぞ長四郎」
そこで長四郎は夜になってから屋根に登り、スズメの卵を取ろうとしますが、ああっ!足を踏み外して、どたーっと落ちてしまいました。
「何事か!」
騒ぎを聞きつけて、秀忠・お江与夫婦が出てきました。見ると、庭で長四郎が尻もちをついている。
「ははあ。家光に命じられたな」
「いえ、そのような、断じて。私は勝手に登ったのです」
「ウソを申すな。家光に命じられたのだな」
「違います」
「強情な奴め、本当のことを申せ」
しかし。いくら問い詰められても、長四郎は家光に命じられたとは言いませんでした。
そこで秀忠は長四郎を袋詰めにして一晩放置しました。次の日の昼に袋を開けて、もう一度問いただしますが、それでも長四郎は口を割りませんでした。
ついに秀忠は長四郎を許しました。
その時、秀忠は側近につぶやきます。
「竹千代がためには並びなき忠臣である。あのように苛めたのは、心根を見ようとしたのだ」
三歳の時の病
幼い頃の家光は病弱でした。三歳の時、慶長11年(1606)に大病を患った記録があります。日光輪王寺に所蔵される「東照大権現祝詞」は春日局の筆と見られ、その中に以下の文言が記されています。
君三ツの御とし、大事の御ハづらいのとき、はかせもくすしもしるしなきところに、こんけんさま御ざいせいの御とき、御くすりあたへさせられ候へは、すなハちその御くすりにて御いのちたすからせられ候
家光公が三歳の時、大変な病気になられた時、博士も薬師もどうにもできなかった所に、家康公がまだ御在世の時で、薬をお与えになられたら、すぐにその薬によって御命が助かったのです。
家康は健康に気を使い、医術にも長じていたということですから、こういうこともあったかもしれません。
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