平賀源内(三) エレキテル

源内焼

明和8年(1771)長崎遊学を終えた源内は、故郷志度に戻ります。そして長崎遊学で得た知識をもとに、新事業に取り組みました。

まずは陶器。

長崎で学んだ製陶の技術をもとに独自に工夫して、焼き物を焼きました。「源内焼」です。緑・黄・紫の色彩の美しさ。そして源内が長崎で身につけた西洋画の技法を活かして絵を描いたので評判になりました。しかし、出資したいという者はありませんでした。

国倫織

そして毛織物。例の四頭の羊の毛で、何度も試し織をした末、ついに織物を織ってしまいます。「どうだ、やればできるじゃないか」源内は得意満面で、国倫織(くにともおり)と名付けました。国倫は源内の別名です。しかし結局、事業として取り組もうという者はありませんでした。

「自給自足を高めて、国力を上げる…こんな大事な話なのに…誰も理解しない!わかってないヤツばかりだ…」

源内の世間に対する不満は日に日に高まっていきました。

秩父中津川の鉄山開発

安永元年(1772)平賀源内は秩父中津川の鉄山開発にかかります。鉄鉱石を高熱で溶かして鉄を精製するのは幕末から行われた技法です。この頃は砂鉄から精製していました。

しかし秩父で採れる砂鉄は質が悪く、なかなかうまくいきませんでした。安永3年(1774)には採掘はとりやめました。

秋田行き

安永元年(1772)6月、今度は秋田藩に招かれて鉱山師吉田利兵衛とともに秋田へ向いました。秋田の銀山・銅山の調査・発掘指導のためです。

同年7月12日。秋田着。秋田で源内と吉田利兵衛は現地人の案内で、院内銀山(秋田県雄勝郡)で、ついで阿仁銅山(秋田県北秋田郡)で、発掘指導しました。

その間、源内は秋田藩士・小田野直武(おだのなおたけ)に西洋画の技法を指導します。

小田野直武は源内から学んだ西洋画の技法を主君に伝え、やがて秋田藩主佐竹義敦(よしあつ)へ伝わります。源内は小田野直武と佐竹義敦に10日間にわたって西洋画の指導をしました。後に秋田では「秋田蘭画」と呼ばれる西洋画風絵画が描かれるようになります。

貧乏生活

江戸に戻ってきた源内は、金がありませんでした。苦し紛れにいろいろなことに手を出します。源内櫛という櫛を売り出したり、金唐革(きんからかわ)という金箔を押したアクセサリーも売りました。『放屁論(ほうひろん)』という、オナラについてまじめに論じた書物もあらわしています。

エレキテル

そんな中にも源内は忘れていませんでした。長崎から持ち帰ったあの箱…エレキテルのことを。源内は電気の知識もないまま、オランダ人にきいたり、手探りでいじくっているうちに、安永5年(1776)11月、とうとうエレキテルを復元してしまいます。長崎に遊学してから7年めのことでした。

箱についたハンドルを回すと、バチッと火花が散るという機械です。ただし源内はなぜこの仕組で火花が散るのか?ほとんど理解していませんでした。なにしろ電気についてまったく知らないのです。

陰と陽が交わるから天の火が出るのだくらいの、オカルト的な理解でした。それでも、カンと手探りで作ってしまったのです。

「しかしこれをただ見せたのでは凡人どもは理解できまい」

そこで源内は、芝居っ気たっぷりにエレキテルを演出します。

「さあさあお立ち会い。これなるは稲妻の理によって天の火を起こすエレキテル。唐天竺にも無い、世にも珍しいエレキテルでござい」

芝居の興行のようにやりました。

ばちっ、ばちばちっ…

おお!

すげえ!

どうやってるんだ!?

深川清住町の源内の別荘はお大名衆でにぎわうようになります。老中田沼意次も自ら見学に来ました。また源内は客を待っているだけでなく、自らエレキテルをもって、大名屋敷に押しかけて披露しました。

平賀源内は狐使いか?魔術師か?

大評判になります。

しかし。

世間は一瞬大騒ぎしただけで、すぐに飽きます。

天の火だ雷の理だといっても、ようするに一瞬火花が散るだけですから、見世物としては面白みに欠けたのです。最初は驚いていた観客も、だから何だとすぐにソッポを向きました。

追い詰められる源内

エレキテルのおかげで一時立て直していた源内の懐事情も、しだいに悪くなり、貧乏暮らしに逆戻りとなります。世間では源内に対する悪評が高まっていきます。

「源内ってヤツはロクでもない山師だ」
「金儲けしか頭にないんだ」

世間の悪評に対し、源内は神経をとがらせ、敏感になっていました。突然癇癪を起こしたり、その後すぐに反省したり…精神が不安定になります。

安永6年(1777)の暮れ、こんな句を詠んでいます。

功ならず 名ばかり遂げて 年暮ぬ

世の中に役に立つ仕事は何一つできないまま、有名にだけはなった。そうして年が暮れる。

この頃から源内の周りには胡散臭い詐欺師のような連中が集まるようになり、生活はすさんでいきました。

源内が死の数ヶ月前に描いた絵があります。崖の上に立った男が小便をして、崖の下にいる男が嬉々としてそれを頭に受けているという図です。もはや意味不明であり、狂気の片鱗さえうかがえます。

殺傷事件

ついに源内は人を殺します。

安永8年(1779)11月21日のことでした。

事情はよくわかりません。斬られた人物も、大工とか、米屋の息子とかいろいろな説があります。

とにかく誤解から口論になって、カッとなって斬りつけたようです。

こうして源内は小伝馬町の牢につながれ、獄中で破傷風にかかって、約1ヶ月後の12月18日、死にました。享年52。

遺骨は浅草橋場の総泉寺に葬られました(現台東区橋場2丁目21番)。友人の杉田玄白は、私財を投じて墓碑を立て銘を刻みました。しかし犯罪者に銘はいらないとして削り取られました。その銘とは、

嗟非常人
非常事好
行是非常
何非常死

嗟(ああ)非常の人
非常の事を好み
行い是れ非常
何ぞ非常に死するや

常識はずれの君は
常識はずれの事を好み
行いも常識にはずれていた。
どうして死ぬときまで常識はずれに逝ってしまったのか。

解説:左大臣光永