杉田玄白(一) 小浜藩奥医師となるまで

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出生

杉田玄白は享保18年(1733)9月3日、江戸牛込矢来(東京都新宿区矢来町)の越前小浜(おばま)藩下屋敷に生まれます。父は小浜藩の医師・杉田甫仙(ほせん)。この時43歳。母の素性は不明ですが、お産とともに亡くなりました。杉田玄白は生涯、母を知らずに育ちました。

杉田氏の先祖は近江源氏佐々木氏の流れをくみ、戦国時代に後北条氏の北条氏康・氏政・氏直三代に仕えました。しかし天正18年(1590)後北条氏が滅亡すると武士としての食い扶持を失います。

その子孫は農民となったり下級の武士となったりと苦労しましたが、元禄16年(1703)越前小浜藩主酒井氏に医師として召し抱えられました。これが玄白の祖父の初代杉田甫仙です。それから二代目の杉田甫仙。そして玄白へと続きます。

玄白は父杉田甫仙…すなわち二代目杉田甫仙から、厳しい教育を受けました。子供の頃、お前は勉強ができないと、頭を固いもので思いっきりぶたれ、生涯その傷が消えなかったといいます。

またある時、幼い玄白が背中に腫れ物ができて痛がっていると、父から床下の掃除をせよと命じられます。言われた通り掃除していると、背中の腫れ物が擦れて、血膿が出て、治ったと。そんな話が伝わっています。

江戸下屋敷から小浜へ

幼少期の玄白は、江戸の小浜藩邸で、父と二人の兄、一人の姉とともに育てられました。元文5年(1740)父杉田甫仙が小浜詰を命じられたのに伴い、小浜に移ります。この時玄白8歳。

以後、延享2年(1745)父がふたたび江戸詰めを命じられるまでの6年間を玄白は小浜に過ごしました。小浜はゆったり静かな海辺の土地です。8歳から13歳までの多感な時期を小浜で過ごしたことは、玄白後々の人格形成にかかわった事でしょう。

ただ残念ながら小浜時代の玄白について知れる史料はほとんどありません。小浜滞在中に、長兄が亡くなっています。

ふたたび江戸

延享2年(1745)父が江戸詰めに戻ったのに伴い、玄白も江戸に戻ってきました。ふたたび牛込矢来の小浜藩下屋敷での生活が始まります。

玄白17歳か18歳ころ、思うところあって父に言います。

「私は今まで怠惰に過ごしてきましたが、今より心を入れ替えようと思います。願はくは良き師について学問をさせてください」

「その言葉を待っていた!」

父は玄白に漢学の師として宮瀬龍門(みやせ りゅうもん)、医学の師として西玄哲(にし げんてつ)をつけてやりました。

日本初の人体解剖

宝暦2年(1752)杉田玄白は、筋違御門近く小浜藩主酒井侯の上屋敷に勤務することになりました。さらに翌宝暦3年(1753)、五人扶持を与えられ、正式に小浜藩医として召し抱えられることになりました。21歳でした。

宝暦4年(1754)春。

小浜藩医として働く玄白のもとに、同僚の小浜藩医・小杉玄適より驚くべき知らせがもたらされます。

「なに!腑分け!」

この年の閏2月7日、京都の六角獄の庭で、首のない罪人の死体を蓆の上で解剖しました。日本初の人体解剖です。漢方医師・山脇東洋は弟子たちと解剖に立あい、内蔵の一つ一つを取り出し、骨の数を数えました。小杉玄適は山脇東洋の弟子の一人で、解剖に立ち会いました。

「それでどうだったのだ!腑分けの様子は…!」

「それが…」

小杉玄適が言うには、日本古来の五臓六腑という考えは、まったくデタラメであったと。阿蘭陀の解剖書に記してあった臓腑の形が、まさに正しいものであったと。

「ううむ…」

杉田玄白はウズウズしてきます。日本初の人体解剖!自分がその現場に立ち会えなかったことが悔しく、また立ち会えた者が羨ましく思えました。

五年後、山脇東洋は人体解剖の記録を『蔵志(ぞうし)』という書物に著します。その中で、古来の五臓六腑説が大間違いであり、実物を見なくてはだめだ。漢方の医学書より「蛮書」オランダ語の医学書のほうが、現実にそくしている、と述べました。

医学は実物を見なくてはだめだ。

山脇東洋の主張が功を奏し、以後、人体解剖が盛んに行われます。長州萩で、ついで伏見で、その技術も回を重ねるごとに上がり、記録もより詳しく正確になっていきました。

開業

宝暦7年(1757)25歳の杉田玄白は、医者として開業するため、牛込矢来の小浜藩下屋敷を出て、日本橋に居を定めます。

平賀源内・中川淳庵との交流

同年7月、江戸で日本初の薬品会が開かれました。薬品会とは、さまざまな薬種や物産を集めて展示する、小型の物産会です。主催者は田村藍水でしたが、実際に企画立案したのは平賀源内でした。展示物はわずか180点。宣伝しなかっかので客もごくわずかでした。

杉田玄白は目を見張ります。

「いやあ源内さん、実に素晴らしい薬品会を開いてくださいました。
勉強になりますなあ」

「なんのなんの。これからもっとやりますよ」

「いかがですか、この後、お近づきのしるしに一献」

「あいや、私は酒は飲めませんが…ぼたもちなら」

「おそれいります。おおい淳庵、先生がご一緒してくださるそうだ」

「はっ、私もお供いたします」

時に、杉田玄白25歳。中川淳庵19歳。平賀源内30歳。

以後、彼らは生涯を通じての友人同士となります。

翌宝暦8年(1758)神田で第二回の薬品会が開かれます。出品数は第一回より多く、口伝えで評判をきいた人たちが訪れました。

翌宝暦9年(1759)今度は自らの名で第三回薬品会を湯島で開きます。

宝暦12年(1762)源内は湯島で、これまでにない大規模な薬品会を開催。「東都薬品会」です。

今度は薬草・薬種に限らず、動物・鉱物、全国から珍しい物産を集めました。

出品依頼はチラシを作って、飛脚によって東へ、西へ、届けました。

集まった草花、鳥獣、魚介類、昆虫など、千三百余種と伝えられます。会は大盛況となり、その後の本草学の発展に大きく貢献することとなりました。

杉田玄白は本業の医療のかたわら、これらの薬品会に熱心に顔を出し、平賀源内・中川淳庵との交流を深めました。

また玄白の日本橋四丁目の家の隣には画家の雪渓が住んでおり、交流を持ちました。玄白は雪渓の影響からか、後には自ら絵を描いています。

さらに玄白は連歌にも興味をもちました。幕府お抱えの連歌師・阪昌周(さか しょうしゅう)から連歌を習っています。漢詩・和歌もたしなみ、日記に書き記しています。

奥医師となる

明和2年(1765)小浜藩の奥医師となり、三人加増されて、八人扶持となります。玄白33歳。

解説:左大臣光永

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