平賀源内(ニ) 戯作者風来人
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東都薬品会
宝暦12年(1762)源内は湯島で、またも薬品会を開催します。これまでにない大規模なものでした。「東都薬品会」です。
今度は薬草・薬種に限らず、動物・鉱物、全国から珍しい物産を集めました。しかし宅急便もない時代、地方からは出品しにくい。そこで全国各地に取次所を設けました。各地の出品者はまず取次所に物品をおさめ、まとまったら江戸に送るという仕組みです。
出品依頼はチラシを作って、飛脚によって東へ、西へ、届けました。スポンサーは湯島の富豪・京屋久兵衛に頼みました。源内の呼びかけに応じて、ぞくぞくと全国の珍しい物品が集まってきました。
集まった草花、鳥獣、魚介類、昆虫など、千三百余種と伝えられます。会は大盛況となり、その後の本草学の発展に大きく貢献することとなりました。
戯作者風来人
平賀源内は日に日に有名になっていきましたが、浪人ですから、常に金に困っていました。そこで源内は、滑稽話を書いて、貸本屋に持ち込みます。
「先生!こいつぁ面白いや!」
「当たり前だ。俺が書いたんだからな」
「原稿料を払いますから、続きを書いてください」
こうして書かれたのが『根南志具佐(ねなさぐさ)』前編です。
閻魔大王が、地獄に落ちた男から歌舞伎役者の絵を見せられる。これはいい男だ、会ってみたいというで、かっぱを武士に化けさせてこの世に送り込み、件の歌舞伎役者を殺して地獄につれてこようとするが…そんな筋書きです。
『根南志具佐』はたちまち大ヒットとなります。
すかさず源内は第二作『風流志道軒(ふうりゅうしどうけん)』を刊行します(宝暦13年(1763)11月刊行)。女と坊主が大嫌いという、実在した浅草の講釈師をモデルにした物語です。
風来仙人から空飛ぶうちわをもらつた若者が、世界中のいろいろな国を訪ねて回るという筋で『ガリバー旅行記』にも比べられます。作中の風来仙人は源内自身がモデルと思われます。
その後も源内は、風来山人、天竺浪人というペンネームで滑稽噺を発表し続けます。
火浣布
また源内は燃えない布「火浣布」を発明しました。今でいうアスベスト布です。
「火で浣(あら)える布だから、火浣布。開闢以来の大発明だぞ!」
源内は得意満面で、オランダ商館長にサンプルを送り、将軍にも、幕府のお偉方にも送りました。しかし。世間は一瞬興味を示しただけで、すぐに忘れました。
火浣布はわずか10センチ四方で、折りたたむこともできないので、実用に耐えなかったのです。
タルモメイトル(寒暖計)
明和2年(1765)オランダ商館長に伴われて、通詞吉雄幸左衛門(よしお こうざえもん)が江戸に滞在していました。源内は毎日のように吉雄幸左衛門の宿所・長崎屋を訪ねていきます。ある日、吉雄幸左衛門は訪問客にオランダ製のある器具を披露しました。
「これが何だかわかりますか?タルモメイトルというものです。温度によって、薬液が上がったり、下がったりする。それで、温度がわかるのです」
「へえーっ、すごいですね」
「でも高いんでしょ?」
やんや、やんやともてはやす見物人たちをよそに、源内は、
「ふん、それ程度のものだったら、俺でも簡単に作れる」
「ははは。オランダ人でもこれを作るのに数十年かかっています。それを簡単に作れるものですか」
「そうですか。じゃあその機械の仕組みを言いますと、」
べらべらべらっ…平賀源内はその場で、タルモメイトルの仕組みを説明しました。周りの人たちは何を言つてるのかわからずキョトンとしていましたが、吉雄幸左衛門と杉田玄白・中川淳庵の二人だけは深く頷いていました。
その後、源内は仕事の忙しさから取り組むことができませんでしたが、明和5年(1768)完成させて、世の好事家に配つてまわりました。
金山事業
このようにいろいろな発明をする一方、源内は秩父中津川金山の採掘に乗り仕出します。幕府の命令を受けて、現地人の協力のもと、掘っていきましたが、これはうまくいかず、事業打ち止めとなっています。
『心霊矢口渡』
ほかにも、源内はさまざまな事業に手を出しますが、ことごとく失敗しました。追い詰められた源内は、明和7年ごろから浄瑠璃を書きます。
処女作『心霊矢口渡』は明和7年(1770)初演。『太平記』から話を膨らませた、全五段からなる時代物です。今日まで、繰り返し演じらています。
とにかく源内は手当たり次第、なんでもやりました。歯磨き粉を売るための広告文まで手がけました。源内が日本初のコピーライターと言われるゆえんです。
二度目の長崎遊学
明和7年(1770)10月、43歳の源内は江戸を後に、長崎へ向います。二度目の長崎遊学です。今回は、老中田沼意次の援助もありました。源内は日頃から田沼意次に献上品を送るなど、ご機嫌取りを欠かしませんでした。それが功を奏したのです。
今回の長崎遊学中も、源内はいろいろなことに手を出しました。
オランダ語を学ぼうとしました。これは挫折しました。語学のような根気のいる技能は、源内には不向きだったようです。源内は生涯、オランダ語を読めるようにはなりませんでした。
陶器を作ろうとしました。
オランダ人・中国人の陶器を、日本は高値で買っていました。しかし伊万里焼・瀬戸物焼に使う天草の土をつかって、もっと大々的に陶器を焼けば…外国のよりもいいものができる。
そう考えて幕府に意見書を提出しますが、まったく取り合ってもらえませんでした。
西洋画にも手を出します。
源内は、絵の具とカンバスを工夫して、見よう見まねで西洋画の技法で夫人画を描きました。これが日本人がはじめて描いた油絵といわれます(神戸市立博物館所蔵 平賀源内作「西洋婦人図」)
また源内は毛織物に注目します。
「毛織物はすべて輸入に頼っている。そんなことではいかん。国内で自給自足できる体制を作らなければ」
そこで源内は…羊の飼育から始めます。どこで手に入れたか四頭の羊を、志度の妹夫婦のもとに送って飼育させました。ゆくゆくは羊から羅紗を取って、一大事業に仕立てるつもりでした。
また源内は長崎滞在中に、奇妙な箱を手に入れます。それは通詞・西善三郎の屋敷の物置にありました。
「何だねこの箱は?」
「エレキテルとかいうものらしいですが、壊れてますよ」
「わしにくれ。直してみる」
こうして、源内は件の箱を江戸に持ち帰りました。
次の章「平賀源内(三) エレキテル」