水野忠邦(ニ) 天保の改革(一)

将軍代替わり

水野忠邦が勝手掛老中を拝命したのが天保8年(1837)4月。翌月、11代将軍徳川家斉が50年にわたる治世に終止符を打ち、西の丸に隠居します。代わって、息子の家慶が12代将軍となります。

老中首座

天保10年(1839)の末、老中首座松平泉守乗寛(のりひろ)が病死したのに伴い、水野忠邦が老中首座を拝命します。水野忠邦はいよいよ全般的に幕府のあらゆる業務を行う立場となりました。

西丸派の粛清

水野忠邦は大坂城代・京都所司代時代から「青雲之要路」といって、老中に就任することを夢みてきました。そのために莫大な賄賂を積んできたのです。では、そうまでして老中になって、水野忠邦がやりたかったことは何なんでしょうか?

それは、徹底した幕政立て直しです。質素倹約をすすめ、風紀の乱れを取締り、大規模なリストラ行う。それによって傾いた幕政を立て直すということでした。

しかし、水野忠邦の前には大きな障害が立ち塞がっていました。

西の丸にいる大御所徳川家斉と、その取り巻き連中です。家斉は派手贅沢を好みました。また絶倫将軍として知られ、40人の側室に55人の子供がいました。そんな家斉が、水野忠邦のやろうとしている改革を受け入れるはずはありませんでした。

だから家斉が生きているうちは、水野忠邦は老中首座といっても身動きが取れなかったのですが、老中首座に就任して3年後。

天保12年(1841)閏正月30日、大御所徳川家斉が亡くなります。享年69。葬儀は水野忠邦の指揮のもと、盛大かつ豪華に行われました。さて葬儀が終わると、水野忠邦は西の丸派に対する徹底した追放人事を行います。

西丸派…つまり前将軍家斉の側近だった者たちを一人一人呼び出して、御役御免・領土没収していきました。

中にも、林肥後守忠英(若年寄),水野美濃守忠篤(御側御用取次),美濃部筑前守茂育(もちなる)(小納戸頭取)の三人は「三佞人」と呼ばれ、西丸派の中心人物でした。前将軍大御所家斉のもと飛ぶ鳥を落とす勢いでしたが、いずれも水野忠邦に狙い撃ちにされ幕閣から追放されました。

将軍徳川家慶が、水野の持っていた御用箱を開いた時、「御用取次というものは、これほどまで政治の機密を自由にするのか」と驚いたといいます。将軍側近によって、政治がいいようにもてあそばれていた弊害を示しています。

こうして水野忠邦は西丸派を幕閣から締め出すと同時に、まわりを自分と考えの近い改革派で固め、幕政改革への土台づくりをします。

天保の改革

天保12年(1841)5月15日、この日は将軍家慶の48回目の誕生日でした。江戸城西湖間にて、諸大名よりお祝いの言葉が述べられた後、将軍家慶よりお言葉がありました。

「政治のことは、享保・寛政の政治に違わぬよう、心得よ」

将軍退出の後、老中首座・水野忠邦が諸大名に言います。

「上様の思し召しの通リである。享保・寛永の政道を肝に命じて、改革に当たるべし」

すなわち、質素倹約・綱紀粛正をおしすすめた享保の改革・寛政の改革にならい、新たな幕政改革を行うという宣言です。

ここに天保の改革が始まったのです。

とはいえ、特に真新しい話はありません。ようするに、質素倹約。質素倹約。質素倹約。それだけです。

享保の改革、寛政の改革と本質的には同じです。そもそも水野忠邦自身が享保の改革・寛政の改革を手本として掲げているのですから、自然、やることは同じになります。

ただし天保の改革が享保の改革、寛政の改革と違ったのは、それまでになく厳しく、ギュウギュウに締め付けたこと。しかもそれを、江戸・大坂・京都はじめ辺境の諸藩にまで徹底して守らせようとしたことにあります。

では、天保の改革の具体的な政策について見ていきます。

農民統制

改革の重点は、一にもニにも農村に置かれました。享保の改革の徳川吉宗が、寛政の改革の松平定信が「農業こそ国の基」と考えていたように、天保の改革の水野忠邦もそう考えました。だからこその農村対策です。はじめ、このような趣旨の法令を出しました。

「農民は奢りをやめて質素倹約に励め」

…奢りをやめろと言われてももう奢りようが無いほど農民は極限まで搾り取られていたのですが、幕府にはそのような感覚はありませんでした。

もっと切り詰められるはずだということで、順次、具体的な規約が出されていました。

農民の衣食住・冠婚葬祭・年中行事から、祭りや催し物まで、事細かに制限を設けました。贅沢はダメだ。娯楽などいらない。もっと働け。もっと耕せ。死ぬまで働け。

規制。規制。規制!

たとえば秋祭りの神輿を担ぐことすら禁止しました。農作業の合間のせめてもの楽しみを取り上げられ、農村では憤懣やる方無いものがありました。

人返し令

また農村を離れて都市に出稼ぎに来ている者が多くありました。幕府はそういうことが農業生産を落とすのだとして、人返し令を出します。出稼ぎを禁じ、都市に流れ込んだ元農民を農村に追い返すというものです。

しかし、そもそも農業で食べていけないから出稼ぎに来ているのであって、それをムリヤリ追い帰したところで、何の解決にもなってません。昔も今も、役人の考えることはどこかズレています。

年貢収入の減少

幕府の年貢収入は延享元年(1744)が最高の180万1855石で、その後、下がり続けました。もはや農民は黙って幕府のために年貢を差し出してはくれませんでした。一揆・打ち壊しという反撃が来て、幕府は常にビクビクしていました。天保期は天保の飢饉もあって、約103万9970石まで下がりました。これが江戸時代通じて最低の数字です。

そもそも、武士という何も生産しない、何も新しい価値を生み出さない穀潰し階級を食わせるために、大多数の農民から簒奪し搾取するという江戸幕府の仕組みそのものに、限界が来ていたと言えます。

小手先で年貢率を上げたり「質素倹約」を強制しても、幕藩体制のこの構造的矛盾は、どうにもならないところまで来ていました。

解説:左大臣光永