新井白石(七)家継の死去と隠居後の白石

家継の死去と白石の隠居

正徳6年(1716)家継は風邪をこじらせて肺炎となり、5月1日、死去しました。時に8歳。

5月3日。白石は辞表を提出します。5月12日、八代将軍となった吉宗より間部詮房や新井白石はじめ前将軍の近習衆をすべて罷免する由が伝えられました。

罷免といっても無一文になったわけではなく、吉宗の寛大な処置により、白石は1000石の知行を許されました。

いわゆる白石の「正徳の治」はこうして終わったのでした。

粗悪な元禄小判を慶長の昔の質の高いものに戻した「正徳小判」。長崎貿易の制限、朝鮮通信使への待遇簡素化など。白石は二代の将軍の世にわたって、その勤めを果たしました。やるべきことはやったという感慨があったことでしょう。

白石の政治理想は、八代吉宗による「享保の改革」へと引き継がれていきます。

後に、左大臣二条綱平は白石の隠居について次のように述べています。

あはれ我(が)国の宝とこそ思ひたり。され共、栄辱はよのつねの事、(中略)ただいかにも長寿におはせん事こそ道のため人の世のために侍れ。

享保2年(1717)1月23日、白石は一ツ橋外の拝領屋敷を去り、深川一色町の借屋に移りました。しかし深川一式町の借屋は狭いので、同年7月、小石川同人町(どうじんちょう)に引っ越しています。場所は小石川伝通院の裏門あたりです。隠居後の白石は詩作と執筆活動に励みました。

自伝『折たく柴の記』は享保元年(1716)から書き始めました。祖父や父のことから筆を起こし、二度の任官と浪人時代を経て、甲府宰相徳川綱豊につかえることになったこと。綱豊が六代将軍家宣となってからの改革事業のことが生き生きと綴られています。すぐれた詩人でもあった白石だけあって、散文にも詩のようなリズムがあり、読みごたえがあります。

そのほか有名な著作だけでも、アイヌのことを書いた『蝦夷志』。沖縄のことを書いた『南島志』(はじめて「沖縄」という言葉を使ったのは白石)。西欧の音韻を取り入れた国語辞典『東雅』。

世界地理について書いた『采覧異言(さいらんいげん)』、宣教師シドッチとの対話に基づく『西洋紀聞』の加筆・修正も晩年まで続けられました。

享保6年(1721)3月4日火事で小石川宅が燃えたことにより、門人の家への借り住まいを経て、同年閏7月15日年、内藤新宿六間町の新居に引っ越します。近くには千駄ヶ谷の八幡があったといいます。現在の新宿御苑の一角です。内藤新宿で白石は健康もやや回復し、いよいよ勢力的な執筆活動に励みました。

その間、仙台藩のおかかえ絵師・佐久間洞巌(さくま どうがん)や水戸の安積澹泊(あさか たんぱく)と書状での交流があり、その学問をいよいよ深めていきました。

享保10年(1725)5月10日、白石は波乱に満ちた生涯を閉じました。享年は「古稀」に一年足らぬ69歳でした。菩提寺である浅草報恩寺内高徳寺に葬られました。現在、白石の墓は中野区の高徳寺にあります。

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解説:左大臣光永


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