杉田玄白(四) 『解体新書』の出版

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翻訳の完成

はじめは遅々として進まなかった翻訳作業も、しだいにはかどるようになっていきます。わかる単語が増えてきたからです。19歳の医者・桂川甫周(ほしゅう)がメンバーに加わったことも大きかったです。

例の「轡十文字」もしだいに減っていきました。一日に十数行も進む日も出てきました。玄白は昼の会合で進んだ所をすぐその夜に原稿としてまとめました。

また翻訳作業のかたわら、腑分けがあれば見学に行き、かわうそなどの獣が人体と構造が似ているときけば解剖して、『ターヘル・アナトミア』と照らし合わせました。

オランダ商館長一行が長崎屋に滞在する時は必ず出かけていって、質問しました。これらを本業の侍医の傍ら、やっていたのです。超人的な作業量です。

杉田玄白があまりに根をつめるので、他の者は笑いました。玄白さん、たまには一休みなさいよと。

しかし杉田玄白は言いました。

「諸君は健康で若いが、私は病気がちで年を取っている。この事業が大成する時までは、とても生きておられまい。人の生死は定めがたし。始めて発するものは人を制し、遅れて発するものはひとに制せらると言うではないか。諸君の事業が大成した時には、私は草場の陰で見ていることであろう」

そんなふうに言ってはがむしゃらに頑張るので、年若い桂川甫周(安永元年19歳)は玄白のことを笑って「草葉の陰」とあだ名するようになりました。

約一年半後には、一応全文の訳が終わりました。

『解体新書』の出版

安永2年(1773)正月、杉田玄白は『ターヘル・アナトミア』出版に先駆け、簡単な内容紹介を出版します。『解体約図』です。これは『ターヘル・アナトミア』のいわば要約版であり、予告編でした。

世間の反応を見ようとしたのです。というのは鎖国下の日本にあって、外国に関する本を出すことは、とてもデリケートな問題でした。オランダ語のアルファベットが記されていたというだけで幕府から処罰された例もありました。

また蘭方医学など見聞きする人もない中、漢方医学とまったく違う解剖図をいきなり出せば、世間を乱す邪説であるといって反感を買うとも思ったのです。

だから前もって『解体約図』という要約版を出して、これは危険な本ではない。医療の発達に大いに役に立つものですよと言おうとしたのです。

『解体約図』出版前後も、杉田玄白は『ターヘル・アナトミア』本編の推敲を重ねていました。最終的に第11稿にまで及びました。

『解体新書』という邦題も決まりました。漢語を題にしたのは、幕府からお咎めをうけないための配慮でした。

こうして、

安永3年(1774)8月、『解体新書』全五巻が出版されます。

骨ケ原刑場で腑分けを見た翌日から、月6-7回集まっての一年半にわたる翻訳事業。その悲喜こもごも入り混じった苦心の結晶が、今、形になったのです。

しかし杉田玄白はまだ心配でした。万一、幕府の咎めを受けたら、一年半にわたる苦心の翻訳事業がムダになる。それではダメだ。今後の医学の発展のため、『解体新書』は確実に、出版されなくてはならない。ミスは、許されない。

そこで玄白は『解体新書』を将軍徳川家治にまず献上します。将軍への献上などふつうはかなわないのですが、翻訳グループの同志である桂川甫周の父甫三は幕臣でありまた玄白の旧友だったので、甫三から将軍に取り次いでもらえたのです。

また関白太政大臣・近衛内前(このえ うちさき)、左大臣九条尚美、武家伝奏広橋兼胤(ひろはし かねたね)にも献上し、その返事に歌を賜ります。

幕府の老中たちにも献上しました。その中には今後いよいよ権勢さかんになる田沼意次もいました。

『解体新書』に対する世間の評判は、まちまちでした。絶賛する者もあれば、漢方医の多くは猛烈に噛み付いてきました。世を混乱させるデタラメ事であるといって。いずれにしても『解体新書』は世の中に波乱をもたらしました。

その後の杉田玄白

翌安永5年(1776)杉田玄白は新大橋の小浜藩中屋敷を出て、日本橋浜町の旗本竹本藤兵衛の敷地内に間借りします。そして町医者として開業する傍ら、「天真楼」という医学塾を開いて後進の育成に勤めました。

杉田玄白の医術はよくきくと評判で、常に客が列をなしました。晩年には加増され400石となりました。

晩年、回想録として『蘭学事始』をあらわします。『蘭学事始』には『解体新書』出版に到るまでの悲喜こもごもの苦労が生き生きとつづられています。

文化2年(1805)将軍家斉に拝謁し、薬を調合。文化4年(1807)家督を息子の伯元に譲り、隠居。文化14年(1817)4月17日、門人・友人に見守られつつ死去。享年85。墓は芝天徳寺の塔頭・栄閑院(東京都港区愛宕)にあります。

解説:左大臣光永

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