与謝蕪村(一)絵画と俳諧

与謝蕪村。江戸時代を代表する文人画家。俳諧では松尾芭蕉に、画では池大雅に並び称されます。

与謝蕪村 出生

与謝蕪村は享保元年(1716)、摂津国東成(ひがしなり)郡毛馬(けま)村に生まれました。現新大阪駅の南東、淀川のほとりです。現在、淀川沿いに「蕪村公園」があります。

子供の頃、蕪村は晴れた日には必ず淀川の堤の上に上って、友達と遊んだそうです。家は裕福な農家だったと思われます。しかし蕪村の本名も、通称も、両親がどんな人物かも、不明です。蕪村は生涯、どんな親しい人にも生まれについて語りませんでした。

江戸へ

享保20年(1735)20歳あたりで、蕪村は故郷毛馬を後に江戸に登ります。八代将軍徳川吉宗による「享保の改革」が行われていた頃です。

以後、蕪村は二度と故郷に戻りませんでした。

夜半亭時代

元文2年(1737)蕪村は俳諧師・宋阿(巴人)の門下に入ります。宋阿は芭蕉の門弟・宝井其角・服部嵐雪に学んだ俳諧師でした。日本橋本石町に夜半亭という庵を結んでいました。

宋阿この年、62歳。浮世離れした仙人の風がありました。

「その情、質朴にして世智に疎く、道人の風儀あり」と書かれています。蕪村が世俗の噂話などしようとすると、モウロクして聞こえないふりをしたというから徹底しています。

「夜半亭」の号も、張継「楓橋夜泊」の「夜半鐘声到客船」から来ています。風流の極みです。

蕪村は宋阿のもとで、師の宋阿が出す句集の編纂の助手をしたり、アシスタント的な仕事をこなしながら、俳諧の何たるかを肌で身につけていきました。また夜半亭に出入りする俳人たちとも交わりを持ちました。

蕪村にとっては充実した日々だったでしょう。しかし長くは続きませんでした。寛保2年(1742)6月6日、宋阿が死にます。享年67。時に蕪村、27歳でした。

関東・東北遍歴

宗阿の死の後、蕪村はしばらくは夜半亭に住んで師の遺稿をまとめようとしましたが、やがて関東遍歴の旅に出ます。以後、寛保2年(1742)27歳から宝暦元年(1751)36歳まで、まる十年、旅から旅へ渡り歩く、根無し草のような暮らしが続きます。

その間の足取りはほとんど記録がありませんが、芭蕉の足跡をたどって松島や酒田はもとより本州の最果て・外の浜(津軽半島東岸)まで足を伸ばしました。

遊行柳は栃木県那須にある西行法師ゆかりの名所で、芭蕉も『おくのほそ道』の旅で訪れています。蕪村は、

柳散り 清水涸れ石 処々

上洛

宝暦元年(1751)36歳の蕪村は10年間の放浪生活を切り上げて上洛。俳人毛越(もうつう)のもとに身を寄せます。毛越は京都の人で芭蕉門下の路通の門人。一時江戸に住んでいたこともある人物です。

以後、天明3年(1783)68歳で亡くなるまでの32年間、蕪村は丹後と讃岐へ行ったのを除けば、ほとんど京都から動きませんでした。

上洛後の蕪村は知恩院そばに庵を結び、京都各地の寺社にある襖絵を訪ね、模写したりひたすら眺めたりしました。蕪村は生涯師を持たず、こうした活動が、蕪村にとっての絵画修業だったと思われます。

ふたたび京

宝暦4年(1754)から4年間を丹後ですごし、宝暦7年(1757)9月、42歳の蕪村は京に戻ります。以後、いよいよ精力的に絵画制作に取り組みます。注文も増えてきました。絵画のかたわら俳諧の席にも参加し、名声を高めていきました。

宝暦10年(1760)、結婚。相手は娘ほども年の若い女性でした。いよいよ責任も出てきたということからでしょうか。さかんに屏風絵の制作を行うようになります。弟子も増えていきました。しかし生活は依然として貧乏でした。

ある時、蕪村のファンが集まった時、そうそう、この間先生が富くじ(宝くじ)を買ってましたよ。えっ、先生が富くじなんて、それはまたなぜ?それが先生がおっしゃるには、自分は絖(ぬめ)張りの屏風に絵が描いてみたい。しかし絖張りの屏風は高価だから手が出せない。そこで富くじを買って当たったら、絖張りの屏風を買おうと思ったのだ。先生はそうにおっしゃっていました。

なんと不憫な…。そこで一人が言います。どうでしょう皆さん、我々で共同出資して、先生に屏風絵を描いて貰いませんか?共同出資?そうです。そして、我々で交代に、何日かずつ絵を手元に置くんです。アッそれはいいですなと、皆で蕪村に提案すると、蕪村はこのアイデアを飲み、皆の出資のもと屏風絵を描いたという話が伝わっています。蕪村の屏風を持ち回ったこの共同出資者の集まりを「屏風講」といいます。

また俳諧においては「三菓社」という俳諧結社を作りました。これはインテリ町人の集まった同好会であり、まじめに俳諧を追求するというよりも、風流に遊び戯れることに主眼が置かれていました。蕪村にとって絵画は職業、俳諧は遊びということで、仕事の合間の息抜き的なものだったようです。

夜半亭二世を襲名

明和3年(1766)から3年間を讃岐で過ごし、明和5年(1768)4月下旬、蕪村は京都に戻ります。戻ると早々、三菓社の仲間たちと句会を開きます。以後、10日間隔で精力的に句会を開きます。丹後でも讃岐でも俳諧にはあまり熱心でなかった蕪村ですが、どうしたのでしょうか。

狩衣の袖のうら這ふほたる哉(蕪村句集)

明和7年(1770)3月、蕪村は夜半亭主二世を襲名し、正式に俳諧宗匠となります。夜半亭とは蕪村の師・宋阿の庵の名であるとともに、俳諧宗匠としての号でもありました。

花守の身は弓矢なきかがし哉

花守役を任された私ではありますが、弓矢のない案山子のごとく、心細いことですよと謙遜した句です。蕪村55歳。遅咲きの俳諧宗匠デビューでした。

絵画と俳諧

絵の注文も増えてきました。中国の文人画の技法を取り入れたり、慈照寺(銀閣寺)の襖絵を描いたり、精力的に活動しました。その一方で、趣味としての俳諧を蕪村は楽しみました。

俳諧を通して、人脈も増えました。

その中には、島原の女郎屋・桔梗屋の主人呑獅(どんし)、揚屋を営む角屋(すみや)の主人・徳野(とくや)の名が見えます。彼らは島原の裕福な妓楼の主人であって、蕪村のパトロンでした。また俳諧を通じて歌舞伎役者とも交流ができました。

池大雅と与謝蕪村

明和8年(1771)蕪村にここ一番の大仕事が依頼されます。池大雅との合作『十便十宜画冊(じゅうべんじゅうぎがさつ)』です。蕪村56歳。大雅49歳。ただし画家としての名声は大雅のほうが上でした。

中国の隠者が「侘び住まいは不便だろう」と問われて、いやいや便利でいいものだと、山里の十の便利さ(十便)と、十のすばらしさ(十宜)を二十首の詩に詠みました。これらに池大雅と与謝蕪村が絵と字をつけるのです。『十便図』を池大雅が、『十宜図』を蕪村が担当しました。

蕪村にとってはプレッシャーのかかる仕事でした。なにしろ池大雅は書家しても名をなしていました。今回のように書+絵の組み合わせで魅せる仕事は、池大雅にはうってつけです。

対して蕪村は書もたしなみましたが、池大雅と比べると見劣りがしました。しかし、蕪村はこの難しい仕事をやり遂げ、画家としての名を上げました。

蕪村と大雅の交流はその後も続き、蕪村の主催する句会に大雅が顔を出したりしたようです。

解説:左大臣光永