杉田玄白(ニ) 父の死と、これから

タルモメイトル

明和2年(1765)春、オランダ商館長に伴われて、通詞吉雄幸左衛門(よしお こうざえもん)が江戸に滞在していました。吉雄幸左衛門は外科医としても名声をはくした人物です。

源内は毎日のように吉雄幸左衛門の宿所・長崎屋を訪ねていきました。玄白も毎日とはいはないまでも、たびたび顔を出しました。ある日、吉雄幸左衛門は訪問客にオランダ製のある器具を披露します。

「これが何だかわかりますか?タルモメイトルというものです。温度によって、薬液が上がったり、下がったりする。それで、温度がわかるのです」

「へえーっ、すごいですね」
「でも高いんでしょ?」

やんや、やんやともてはやす見物人たちをよそに、平賀源内は、

「ふん、それ程度のものだったら、俺でも簡単に作れる」

「ははは。オランダ人でもこれを作るのに数十年かかっています。それを簡単に作れるものですか」

「そうですか。じゃあその機械の仕組みを言いますと、」

べらべらべらっ…平賀源内はその場で、タルモメイトルの仕組みを説明しました。周りの人たちは何を言つてるのかわからずキョトンとしていましたが、吉雄幸左衛門と杉田玄白・中川淳庵の三人だけは深く頷いていました。

オランダ語の学習を断念

翌明和3年(1766)春。またもオランダ商館長一行が、通詞を伴って江戸を訪れます。江戸滞在中、通詞は長崎屋に滞在していました。

ここに前野良沢という男がありました。父は福岡藩の江戸詰め藩士で谷口新介といい、母は淀藩の藩医の娘でした。杉田玄白より10歳年上です。母方の叔父・宮田全沢の影響で、子供のころからオランダ文字に興味を持っていました。

本業の医学に熱心な一方、一節笛(ひとよぎれ)という笛を極めたり、猿若狂言の会に通って稽古を積むと言った、一風変わった男でした。

後には八代将軍吉宗の抜擢した青木昆陽に師事することになります(時期は不明)。

この前野良沢が長崎屋を訪れてオランダ語について質問するというので、玄白は興味を持ち、私も一緒にいっていいですか。もちろんだと、二人で長崎屋を訪れます。

前野良沢が西善三郎に言います。

「オランダ語を身につけたいのです」

すると西善三郎は、

「それは無謀です。たとえば水や酒を飲むということを言うのに、最初は身振り・手振りで示すしかありません。こう…飲む手振りをすれば、それはデリンキ(drink)と答えます。これすなわち飲む、ということです。しかし上戸・下戸ということを言えば、手振りで示しようがなく、お手上げです」

それに始まり、西善三郎はオランダ語を身につける難しさについて、特に抽象的な言葉や概念を学ぼうとするとまったく手がかりが無いといって、例を上げつつ説明しました。

「私のように朝夕オランダ人と一緒にいても簡単にはいかないのです。まして江戸にいて、身につくものではありません。やめたほうがいいです」

これを聞いて、杉田玄白は、

(なるほど、さすがは大通詞のお言葉だ。説得力がある。無益なことに長い月日を費やすところだった。オランダ語の勉強なんて、やめておこう)

杉田玄白は自分がやっている医術にオランダ語が役に立つか?役に立つとしても、習得にかかる手間暇を考えて割にあっているか?あくまでも実利で物事を考えるタイプでした。実利で考えてオランダ語の勉強は割にあわないので、あっさりと諦めました。

しかし前野良沢は、違っていました。

(江戸では身につかない?ならば長崎へ行って朝夕オランダ人と接すればどうだろう…?)

前野良沢は杉田玄白と違い社交的なタイプではありませんでしたが、それだけに自分の中の熱意を一人黙々と育てることには、長けていました。オランダ語を基礎から学びたい。とことん極めたいという探究心に突き動かされていました。

前野良沢は4年後の明和7年(1770)、長崎行きを実行します。

タルモメイトル完成をきく

明和5年(1768)杉田玄白のもとに驚きの知らせがもたらされます。

「ええっ、源内さんが、タルモメイトルを!」

三年前の明和2年、長崎屋で「自分でタルモメイトルを作る」と啖呵を切った平賀源内。3年目にして、本当に作ってしまったのでした。

源内はこれに「日本製寒熱昇降機」と命名し、「蛮語タルモメイトル」と付け加えました。得意満面の源内の表情が伝わってくるようです。

この年、杉田玄白35歳。年老いた父を抱え、杉田家の跡取りとして責任が重くのしかかってくるをのを感じていました。それでいて医者として今後どう生きていくのか?まだまだ方向が見いだせないでいました。

そこへ、友人平賀源内がタルモメイトルをものにしたという知らせは、玄白に勇気と羨望を与えたことでしょう。

オランダ医学書を描き写す

明和6年(1769)、オランダ商館長ヤン=カランスの付き添いで、大通詞・吉雄幸左衛門がふたたび江戸に来て長崎屋に滞在しました。

杉田玄白はこの頃までに「オランダ医学を学びたい」という気持ちが高まっていました。それで、長崎屋を訪ねて、弟子にしてくれと申し入れます。

吉雄幸左衛門は玄白を受け入れ、以後玄白は長崎屋に通うようになります。ある時は吉雄幸左衛門の医学の師バウエルが手術執刀する現場にも立ち会ったといいます(もっともこの時のオランダ商館長にバウエルは随行しておらず、源内の記憶違いと思われます。別の医師の手術をバウエルのそれと混同したのでしょう)。

杉田玄白の勉強熱心に感心してか、吉雄幸左衛門は玄白に一冊の本を貸してくれます。

「オランダ語の!医学書!これが!!」

飛び上がって喜ぶ杉田玄白。そればドイツ人医師ローレンス・へーステルの書いた図入りの医学書をオランダ語に訳した『シュルゼイン』でした。

杉田玄白はオランダ語は読めませんが、その挿絵に目を惹かれました。挿絵を見れば、だいたい何を説明した箇所かわかるのです。

これはいける!

その日から杉田玄白は昼も夜も『シュルゼイン』の挿絵を描き写しました。「夜をこめて、鶏鳴に及びしこともありき」と後年回想しています。

父の死と、これから

明和6年(1769)8月10日、玄白の父杉田甫仙が亡くなります。享年79。生まれながらに母なし子であった玄白をことに愛し可愛がってくれた父でした。

晩年は牛込矢来に隠居していましたが、源内はたびたび父を見舞いました。その時、目安にしている日陰がありました。父はその日陰が高い時は今日は早かったといって喜び、日陰が低い時は、どうして遅くなったと面白くない様子であったと、後年玄白が回想しています。

父の死によって玄白を取り巻く環境は大きく変わりました。新大橋の小浜藩中屋敷に移ることとなり、待遇も三十八人扶持となりました。宝暦7年(1757)から明和6年(1769)まで、12年間の町医者生活を切り上げ、これよりは小浜藩の侍医として仕えることとなりました。

とはいえ、玄白はまだいろいろと心にわだかまりを抱いていました。

(杉田家は代々オランダ式医術をやってきた。しかしオランダ語も読めず、実物を見もせず、それで医術と言えるのか?)

実物を見る、とは、山脇東洋が行った、日本最初の腑分け…人体解剖のことです。杉田玄白は山脇東洋のあらわした『蔵志』を読みました。

そこには、古来の五臓六腑説が大間違いであり、実物を見なくてはだめだ。漢方の医学書より「蛮書」オランダ語の医学書のほうが、現実にそくしている、と書いてありました。

医学は実物を見なくてはだめだ。

この言葉は玄白の心を震わせました。

『シュルゼイン』を「夜をこめて、鶏鳴に及ぶまで」描き写したことも、玄白の気持ちを高ぶらせていました。

しかし一方で玄白は日本古来の医学や漢方も、それら全てが間違いとは思えないのでした。

腑分けに立ち会って、この目で確かめたい。オランダ医学と、漢方と、どちらが正しいのか?

その気持は高まる一方でした。

解説:左大臣光永