与謝蕪村(ニ) 盛んなる晩年
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「明鳥」刊行
安永ニ年(1773)秋。「明烏(あけがらす)」が刊行されました。蕪村門人の几菫(きとう)が編集をして、末尾に蕪村・几菫の歌仙を置きました。
「明烏」というタイトルは、古い時代は去った。新しい時代の幕開けである。我らこそ、その担い手だという意味をこめました。
蕪村は出しゃばらず、巻末に句を載せたに留まりました。自分はもう老人であることを自覚し、若い連中に道を譲る気持ちがあったのでしょう。この年蕪村58歳です。
「明烏」の蕪村の句
不二ひとつ埋みのこして若葉かな
あたり一面を若葉が覆い尽くす季節。しかし向こうに見える富士山だけは、若葉に埋ずもれず、いただきに雪をかぶって、すっくと立っている。
牡丹散りて打ちかさなりぬニ三片
牡丹の花が散って、そのニ三片が重なっている。
蕪村の名句
蕪村にとって絵は職業であり生活の糧でした。専門は南画(文人画)ですが、南画だけではインテリにしか売れないので、生活の足しにならないのです。
そこで蕪村は売るためにさまざまな画法を試みています。しかし大作を描いてもせいぜい一ニ両にしかならず、蕪村の生活は苦しいものでした。
一方、俳諧は蕪村にとって趣味であり、肩の力を抜いて楽しんだようです。安永5年(1776)9月、几菫の編集で『続明烏』が出版されます。蕪村の句は名句揃いです。
鶯のあちこちとするや小家がち
菜の花や月は東に日は西に
負くまじき角力(すまい)を寝物がたりかな
娘の結婚
安永5年(1776)12月、娘くのが結婚します。この時14-5歳だったと思われます。蕪村は61歳。中年以降にもうけた娘であり、娘というより孫のようでした。それだけに愛情もひとしおだったでしょう。
娘には琴を習わせていました。最近はかなり上達してきて、寒い中でもかきならし「耳やかましく候」と書いています。娘の成長を喜ぶ父のニンマリ笑いが伝わってきます。
結婚の数日前、蕪村は大宴会を開きました。34、5人の客を呼び、琴の名人、舞妓も呼んで朝まで騒ぎまくりました。蕪村はこの頃、多額の借金を抱え、長患いで絵も描けず、生活は困窮の極みだったのですが。よほど嬉しかったのでしょう。娘のためにどんちゃん騒ぎをしたのです。
しかし娘の結婚はわずか半年ほどで破局します。翌安永6年(1777)5月には離婚していました。
「春風馬堤曲」
娘の結婚後も、蕪村は精力的に活動します。
安永6年(1777)2月、春の句ばかりを収録した『夜半楽』を出版。中にも、「春風馬堤曲」十八首は、いままでにないものでした。
発句と、漢文をまじえて、藪入りで故郷に帰る娘の道中を描きます。娘が帰っていく先の故郷には、蕪村の故郷・大坂の毛馬が重ねられていました。それまで自分の生まれについて一切人に話さなかった蕪村ですが、この「春風馬堤曲」について「故郷のなつかしさから、うめき出たような詩である」と人にもらしています。
おそらく娘が結婚して、肩の荷がおりた感じから、今まで封印してきた故郷なつかしさがドッと出たのではないでしょうか。
同年5月、娘離婚。
「おくのほそ道画巻」
翌安永6年(1777)9月。『おくのほそ道画巻(がかん)』完成。ユーモラスな俳画で描かれ、現在の漫画に通じる味が出ています。安永7年(1778)5月、『野ざらし紀行図屏風』完成。芭蕉に心酔する蕪村としては、どちらもやりがいのある仕事だったでしょう。
仕事の傍ら、安永7年(1778)3月から14日間、大坂から兵庫にかけての長旅をし、門人たちと句会を開きました。娘の離婚から来る傷心を癒やす意味もあったのでしょう。
茶屋遊び
晩年の蕪村は小糸という芸妓に本気で入れ込んで、門人から手紙でとがめられる場面もありました。そこで蕪村は返事の手紙を出して、わかった小糸のことはもう諦めると一応反省してみせて、手紙の末尾に、
妹がかきね三味線草の花さきぬ
愛しい人のいる家の垣根に三味線草…ナズナの花が咲いていると詠んで、小糸への、なお断ち切れぬ未練を示しました。
「やれやれ先生にも困ったものだ…」
蕪村をいさめた門人(道立)は苦笑したことでしょう。この手紙の後も芸妓を引き連れて歌舞伎の顔見世興行を見物したり、蕪村の茶屋遊びはやみませんでした。
最晩年
安永10年(1781)4月、改元して天明元年となります。蕪村は天明3年に68歳で死にますが、その最後の三年間、精力的に絵を描き、茶屋通いを続け、芝居見物をして、少しも衰えませんでした。友人夫婦と嵯峨野の花見に出かけたり、天明2年(1782)3月には念願の吉野旅行に出かけました。
花を呑んで雲を吐くなり吉野山
まず充実した晩年だったようです。
最晩年天明3年(1783)も、大津義仲寺の襖絵を描いたり、芭蕉百回忌の追善俳諧を開いたり、忙しいことでしたが、10月から体調が悪化します。
しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり
12月25日未明、蕪村は門人たちに見守られながら息を引き取りました。享年68。遺骸は洛東一乗寺の金福寺に葬られました。
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