大仏建立

こんにちは。左大臣光永です。

先日、甲府に行ってきました。そこらじゅうの側溝に、雪解け水が元気よく流れてました。これら雪解け水のほとんどが富士川に流れ込み、甲斐の山間を通って、駿河湾まで注ぐのかと、不思議な気持ちになりました。

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本日のメルマガは「大仏建立」です。天平15年(743)10月15日、聖武天皇は近江の紫香楽宮にて盧舎那仏造営の詔を発します。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

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大仏建立の詔

奈良の大仏
奈良の大仏


紫香楽宮 甲賀寺跡(滋賀県信楽 内裏野地区)

「国中の銅を尽くして尊像を造り、大きな山を崩して仏殿を構えるのだ。…一枝の草、一にぎりの土ほどのわずかな物でも、造営のために寄進したいという者があれば、無条件でそれを許せ。また、役人たちはこの事業のために、人民を徴発したり、増税したりしてはならぬ」

僧・行基は聖武天皇のたっての願いにより、弟子を動員して大仏造営の費用あつめのための勧進をしました。

近鉄奈良駅の行基像
近鉄奈良駅の行基像

行基は民衆に辻説法を行い、政府から弾圧されている立場でした。しかし、行基は民衆を率いて土木工事などに従事させ、民衆からの信奉あついものがありました。それを見て政府は、弾圧するよりも取り込んだほうがよいと判断したようです。

聖武天皇はなぜ大仏を作ろうとしたか?

そもそも聖武天皇は、なぜ、大仏を造ろうとしたのでしょうか?

聖武天皇の時代には、さまざまな社会不安が続きました。737年天然痘の流行で、当時権力の座にあった藤原四兄弟がすべて死に絶え、740年には九州で藤原広嗣が反乱を起こしました。

飢饉や干ばつ。都には浮浪者や貧困農民があふれました。

さて光明皇后は熱心な仏教徒でした。仏教の力で国を救う…鎮護国家の考えを夫・聖武天皇に強くすすめました。

また聖武天皇は天平12年(740)2月、難波宮に行幸した際、河内国知識寺の盧遮那仏を見て、気に入りました。これが大仏造営に心が動いた直接の原因だったようです。

河内国知識寺は今は廃寺になっており、大仏といってもどんなものだったか不明です。

大仏造営

翌天平16年(744)11月、紫香楽宮の甲賀寺(滋賀県甲賀市)にて大仏の骨柱を立てる所まで工事が進みました。しかし山火事が相次ぎ(反対派の妨害工作?)、紫香楽での造営はあきらめざるを得ませんでした。

その後、都が平城京に戻り、あらたに平城京左京の東の郊外、金鐘寺で大仏を造営することになりました。金鐘寺は後の東大寺です。

大仏師国君麻呂(くにのきみまろ)が中心となって大仏造営が始まりました。まず大仏の中心となる骨柱のまわりを縦横に木枠で覆います。これに目の粗い砂から目の細かい砂まで粘土砂を塗りつけて、大仏の原型となる塑像(そぞう)を作ります。

大仏建立

大仏の原型ができると表面に雲母(きらら)などの粉をふりかけ、前とは逆に目の細かい砂から目の粗い砂へ順に粘土砂を塗り付けていきます。その厚さは4、50センチくらいです。

大仏建立

この段階で、大仏は全体に外型をまとい、本来の大きさより一回り大きく見えていたはずです。

外型は数日間乾燥した後、分割して原型から外し、高温で熱してレンガ色になるまで熱します。

そして原型のほうは全面を5-6センチ削り取ります。この厚さが大仏の肉厚になります。

大仏建立

こうしてできた「中型(なかご)」に、地面から一定の高さまで、中型を削った分だけ浮かせて外形をかぶせます。そのままでは中型と外型がひっついてしまうので、「型持」というスペーサーを間にはさみます。

大仏建立

型持は後に銅を流し込むと溶けて銅と一体化してしまうので問題無しです。

次に中型と外型のまわりを土手で覆います。そして土手の上に複数の溶解炉を置き、銅や鉛を溶かします。

大仏建立

ソレッの掛け声とともにたぎった銅や鉛を流すと、それは、中型と外型の間の細い切れ目にスーーッと流れ込んでいきます。

この銅が凝固するまで待ちます。完全に凝固したら、またも中型のある高さまで外形をかぶせ、そのまわりを土手で覆います。そして土手の上に複数の溶解炉を置き、銅や鉛を溶かし、同じように中型と外型の間に流し込みます。

大仏建立

鋳造は八段階に分けて行われました。順番に第三、第四の土手が築かれ…

大仏建立

大仏建立

第八の土手に至って大仏が完全に土手で覆われました。

天平19年(747)に大仏本体の鋳込みが開始されてから、天平勝宝元年(749)まで、実に三年の歳月が流れていました。

山のようにそびえる土手を多数の人夫が切り崩していきます。そして外型をガバッとはずすと…

大仏建立

「うおっ…!!」

土手の中から、荘厳な毘盧遮那仏のご尊顔があらわれました。

「おおーーーーっ!!」

技術者も、労働者も、いっせいに歓声を上げたことでしょう。やった!やった!ワシラの仕事はムダではなかった。飛び上がって、抱き合って喜んだかもしれません。

金の産出

こうして大仏の原型はできましたが、聖武天皇には心配がありました。大仏に塗る金が不足していたのです。しかしこれも、思わぬ方向から救いがありました。

陸奥で、金が産出したのです。知らせを受けて聖武天皇はほっと安堵するとともに

「ああ…感謝します!」

すぐさま光明皇后・皇太子阿倍内親王を伴い、建造中の大仏殿に赴き、感謝の宣命をささげさせました。また百官に官位がふるまわれました。

この頃、大伴家持は越中守として越中に赴任していましたが、金の産出によって従五位上に一段昇進しました。『万葉集』に、大伴家持が金の産出を祝った歌が残っています。

天皇(すめろぎ)の 御代(みよ)栄えむと 東(あずま)なる
陸奥(みちのく)山に 黄金花咲く
(『万葉集』18巻 4097)

塗金

さて本体鋳造が終わった後は、表面処理を行います。これがまた大変な作業です。

銅が流れ込まなかった部分や、亀裂が走った部分を細かくチェックし、補修していきます。やすりや鏨(たがね)で表面を削り、滑らかにしていきます。8段に分けて鋳込んだので、その継ぎ目をならす作業も必要でした。さらに塗金のための地ならしとして、砥石で磨いた上を木炭で磨きました。

螺髪(らほつ)の鋳造もこれと並行して行われます。螺髪とは大仏の頭に載っている、パンチパーマのようなくるくるっとしたやつです。奈良の大仏には492個あります。鎌倉の大仏は螺髪も本体と一体化して鋳造されていますが、奈良の大仏は螺髪は別パーツとして制作され、後から埋め込んでいきました。この作業にも一年半ほどかかりました。

こうして表面処理を終えると、金が塗られていきます。

大仏開眼供養

駆り出された述べ人数260万人。当時の人口は600万人程度と推定されるので、人口の半数近くが駆り出された計算です。銅450トンを使い、大仏と大仏殿をあわせた造営費は数千億円にのぼりました。

国家予算が潤沢に余っているならまだしも、餓死者や浮浪者があふれている中、こういうことが行なわれたのです。大変な話です。

752年4月9日、大仏開眼供養の儀式が開かれます。743年に発願してから9年目のことでした。

東大寺大仏殿
東大寺大仏殿

すでに娘の孝謙天皇に位を譲っていた聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇以下、高位高官が並び、華やかな儀式でした。

インドの僧菩提僊那(ぼだいせんな)が、大きな筆を持って足場に登ります。筆から後ろにのびた緒を、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇以下、政府高官たちが握ります。

最後の仕上げとして、大仏に目玉を描き入れると、

ワーーーッ パチパチパチパチ

大仏殿からは、一せいに拍手と歓声が上がります。インドや中国から1000人の僧侶が招かれ、集まった人の数は一万人を越えました。

儀式の後は晴れやか音楽とともに、インドや中国の踊りが披露されます。その賑わいは東大寺の外までも響き渡ります。しかし、大仏建立の一番の功労者である庶民は、当然ながらこの式典には一人も招かれませんでした。

結果

聖武天皇による大仏建立。歴史的評価としては賛否両論あって、一概に「いい」とも「悪い」とも言えませんが…少なくとも、この時代(聖武天皇の生きた時代)に限ってだけ言えば、完全な失敗でした。

いいことは、何一つありませんでした。

ただでさえ傾いていた財政基盤はガタガタになり、庶民の暮らしは大打撃を受けました。平城京には浮浪者や貧困農民があふれました。

水銀を蒸発させて金メッキを定着させるので、多くの人が水銀を吸い込みました。水銀中毒になって亡くなった人も多かったと思われます。

後に橘奈良麻呂は、クーデターが未然に発覚し取り調べを受けた際(757年)、「東大寺の造営で民が苦しんでいる。政治が悪いから正そうとしたのだ」

奈良麻呂の言葉からも、聖武天皇の事業は当時から無謀と見られていたということがわかります。

二度の焼失

その後、東大寺の大仏は二度焼失しています。一度目は治承4年(1180年)平重衡によって。二度目は永禄10年(1567年)戦国時代の戦火によって焼けました。

しかしいずれの時も復興を遂げ、現在に至っています。

告知

日本の歴史 飛鳥・奈良
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飛鳥時代と奈良時代の事件や人物を年解説した解説音声とテキストです。メディアはdvd-romです。

第一部「飛鳥時代篇」は、蘇我馬子や聖徳太子の時代から乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱まで。

第二部「奈良時代篇」は、長屋王の変・聖武天皇の大仏建立・鑑真和尚の来日・藤原仲麻呂の乱・桓武天皇の即位から長岡京遷都まで。

教科書で昔ならった、あの出来事。あの人物。ばらばらだった知識が、すっと一本の線でつながります。旅のヒントにもなります。

京都講演■京都で声を出して読む 小倉百人一首
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4/28(日)17時~京都駅八条口徒歩10分。長福寺にて。最終回。小倉百人一首の歌を会場のみなさまとご一緒に読み、解説していきます。86番西行法師~

奈良の大仏
奈良の大仏

解説:左大臣光永