鴨長明(八)都を去る

こんちにちは。左大臣光永です。ジトジトした、イジケた天気が続きますが、いかがお過ごしでしょうか?

本日は「鴨長明(八)都を去る」です。

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寂蓮の死

鴨長明が和歌所の寄人として働いたのは建仁元年(1201)から元久元年(1204)ごろまでの4年ほどです。その間の出来事として、

建仁2年(1202)寂蓮法師が死にました。寂蓮は俗名を藤原定長といい、はじめ俊成の養子となりましたが、俊成に実の子・定家が生まれたせいか、御子左家を出て出家。各地を放浪して歌を詠んだりしました。

しかし出家後も定家と寂蓮の交流は続いていました。歌道においては、寂蓮以外を朋輩と頼むことはなかったと、定家はつくづく、述べています。

小倉百人一首87番「むらさめの露もまだひぬ真木の葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ」は有名です。

俊成九十の賀

建仁3年(1203)。この年は関東で政変が起こりました。二代将軍頼家が伊豆に退けられ、代わって弟の実朝が三代将軍に就任したのです。そんな中、

11月23日、和歌所では釈阿俊成入道の九十の賀が開かれました。春・夏・秋・冬の絵と歌を配した屏風に囲まれた中で、俊成に法衣が授けられ、後鳥羽院と俊成が並んで座ります。

「俊成、よくこれまで朝家に院につくしてくれた」

「ははっ、上皇さま、勿体ないお言葉です」

藤原俊成。代々の歌道の家「御子左家」の当主。崇徳天皇、二条天皇、後白河院、後鳥羽院の歌壇で活躍しました。ことに後白河院からは七番目の勅撰和歌集『千載集』の編纂を命じられるという名誉を得ました。

門下からは息子の定家はじめ、養子の寂蓮、藤原家隆、式子内親王など新古今時代を代表する歌人たちが出ました。人を育てることにも、長けていたのです。

盛大な宴の後は、都を代表する歌人たちの歌が、紙に書いて並べられます。いずれも俊成と後鳥羽上皇の長寿をことほぐ歌です。

長明の歌は、

久方の雲にさかゆく古きあとをなほ分けのぼる末ぞはるけき

雲のように栄えゆく和歌の道。その道は大先輩俊成卿が開いたものだが、その跡を我々はなおも分け登っていく。その末ははるか遠く高くあることよ。

まことに温かな、和歌所の面々の交流を今に伝える場面でした。しかし楽しい時間は長くは続きませんでした。翌年には長明は和歌所を去り、釈阿俊成は亡くなります。

遁世

すべてあられぬ世を念じ過しつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。

その間、をりをりのたがひめ、おのづから短き運を悟りぬ。すなはち、五十(いそぢ)の春をむ迎へて、家を出で、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何につけてか執を留めん。

『方丈記』

長明は自らの出家隠遁についてこう書いています。生きにくい不安定な生活の中、無事を祈りつつ、心を悩ませること三十年あまりであった。

その間、人生の節目節目にすれ違いがあり、うまくいかず、自然、自分には運が無いことを悟った。そこで、五十の春を迎えて、家を出て、出家したと。

「五十の春」を文字通りに取ると、元久元年(1204)春になります。が、元久2年(1205)の歌合にも「鴨長明」の名が見えるので、時期は微妙です。

『方丈記』では一切触れられていませんが、『源家長日記』に、長命が隠遁することになった詳しいいきさつが書かれています。

後鳥羽上皇は、鴨長明の和歌所寄人としての熱心な働きを見て、何かの折に報いてやりたいと思っていました。そんな中、下鴨神社摂社・河合社の禰宜に欠員が生じます。

河合社(現河合神社)
河合社(現河合神社)

河合社の禰宜は、将来下鴨社本社の禰宜となるためのルートでした。父長続もその道をたどりました。ようやく機会が回ってきた!父の跡が継げる!胸踊る長明。後鳥羽上皇も、今こそ長明の精勤に報いる時と、長明を河合社禰宜に推します。

そこに、同族の鴨佑兼から横槍が入ります。

「長明は神社の仕事に熱心ではありません。禰宜にふさわしくありません」

長明は実際、神社の仕事に熱心でなかったので、こう言われてはぐうの音も出ませんでした。

しかし後鳥羽院は何とか長明に報いてやりたい。そこで。「うら社」という別の摂社を官社に格上げし、長明をその禰宜にすると言い出します。一個人のために官社が新説されるなど、異例のことでした。後鳥羽院の長明へのご厚意は並々ならぬものがありました。

しかし。

長明はこの申し出を断ります。長明はあくまで父長継の跡を継ぐことにこだわりがありました。河合社禰宜でなければ意味が無い。そんな「うら社」などでは納得できないのでした。

源家長は長明のこの判断を「うつし心ならずさへ覚え侍りし」正気で無いと書いています。「こはごわしき心」強情者とも書いています。

結局、長明は後鳥羽院にも、和歌所の同僚たちにも心開くことなく、失踪してしまいます。

山里へ

長明の行方はようとして知れませんでしたが、しばらくして後鳥羽院のもとに長明より十五首の歌が贈られてきました。その中に、

住みわびぬげにやみ山のまきの葉に 曇るといひし月を見るべし

人生に疲れた自分は、今度は本当に深山のまきの葉ごしに、かつて曇ると詠んだ月を見ることになりそうです。

この歌は建仁元年(1201)の歌合で鴨長明が詠んだ「よもすがらひとりみ山の真木の葉に くもるもすめる有明の月」を踏まえます。歌合で詠んだ時は、真木の葉ごしに見る月を空想して詠みましたが、今度はそれを現実の景色として見ることになりそうです、という意味です。

またこうも詠んでいます。

見ればまづいとど涙ぞもろかづら いかに契りてかけ離れけん(新古今・雑下・1776)

それを見ると、まづ、たいそう涙をそそられるもろかづらよ。どんな宿命で、私は下鴨社と縁が離れてしまったのだろうか。

「もろかづら」は葵の葉を桂の輪にさしたもの。賀茂祭の時、頭につけて飾りにします。賀茂祭は下鴨社の祭りなので、長明はかつて自分が属していた下鴨社、その面影を見ているのです。ああどうして縁が切れてしまったかなあと。

次回、最終回「晩年と死」に続きます。お楽しみに。

■発売中

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■講演会
10/27 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
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第四回。33番紀友則から48番源重之まで。会場の皆様とご一緒に声を出して歌を読み、解説していきます。百人一首の歌のまつわる名所・旧跡も紹介していきますので観光のヒントにもなります。

解説:左大臣光永