鴨長明(九)晩年と死

こんにちは。左大臣光永です。旅行ガイドなどに載ってる観光地の写真をみると、カラッと晴れた青空をバックにしてます。本来、写真撮るのは晴れた日がいいんでしょう。

しかし、歴史の本など読むと、おそらく作者の先生がデジカメで撮ったような、そう上手でない写真が、例えば武田信玄の戦った高天神城であるとか、そういう写真を見ると、けっこう曇り空で、雨降ってる時でも写してあります。

最近はそれでいいんだと思うようになりました。写真は晴れの日ばかりではない。曇の日も積極的に取材に出ようと思うようになりました。

本日は「鴨長明(九)晩年と死」です。

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『新古今和歌集』の完成

鴨長明が都からいなくなった後も、和歌所では勅撰和歌集の編纂事業が続いていました。その名も『新古今和歌集』と決まりました。

しかし困ったことがありました。和歌所発足時のメンバーであった寂蓮・源通親・釈阿俊成・藤原隆信はすでに亡くなり、長明は隠遁。定家は父俊成の喪に服して出られず、和歌所寄人は八人しか残っていませんでした。

和歌所のあった二条殿阯
和歌所のあった二条殿阯(中京区二条殿町)

とはいえ、『新古今和歌集』の編纂は後鳥羽上皇がその帝王生命をかけた大事業。中断するわけにはいきませんでした。

また最終期限も迫っていました。

醍醐天皇によって『古今和歌集』が上梓されたのが延喜5年(905)4月。それから300年の区切りにあたるこの年・元久2年(1205)4月に、ぜひとも『新古今和歌集』を完成させたい。それが後鳥羽上皇の願いでした。

同年3月、宮中で『新古今和歌集』を披露する儀式が行われます。定家は喪中のため参加できませんでした。期限までもう一か月を切っていました。

定家はこの間、喪中で参加できない中にも、たびたび書状で『新古今和歌集』の内容について細かい指示を与えます。

3月末には、九条良経による「仮名序」の草稿が出来上がります。仮名文字による序文のことです。

やまとうたは、昔あめつち開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国(あしはらのなかつくに)の言の葉として、稲田姫(いなだひめ)素戔鵞(すさのお)の里よりぞつたはりける。しかありしよりこのかた、その道さかりに興り、その流れいまに絶ゆることなくして、色にふけり、心をのぶるなかだちとし、世をおさめ、民をやはらぐる道とせり。

この間、藤原定家と後鳥羽院の意見の対立という危うい場面もありつつ…

元久2年(1205)、『新古今和歌集』はいちおうの完成を見ます。建仁元年(1201)11月に勅撰和歌集編纂の院宣が出されてから、4年の歳月が経っていました。

西行の歌が最も多く95首。

次が慈円で86首採られました。

九条良経、藤原俊成、定家父子、式子内親王、藤原家隆、寂蓮…

後鳥羽上皇が深く関わった、この時代を代表する歌人たちの歌が、多く採られました。

鴨長明は十首採られました。

その中からいわれの深い歌を三首。

夜もすがらひとりみ山の真木の葉にくもるも澄める有明の月(雑上・1521)

一晩中一人夜を過ごして、深山の真木の葉の向こうに、曇り空の中にも澄んだ有明の月を見るのだ。

見ればまづいとど涙ぞもろかづら いかに契りてかけ離れけん(雑下・1776)

それを見ると、まづ、たいそう涙をそそられるもろかづらよ。どんな宿命で、私は下鴨社と縁が離れてしまったのだろうか。

賀茂祭=現 葵祭
賀茂祭=現 葵祭

石川や瀬見のをがはの清ければ月も流れを尋ねてぞ澄む(神祇・1894)

石川の瀬見の小川(=賀茂川および糺の森を流れる「瀬見の小川」のこと)は水の流れが清いので、月もこの流れを尋ねてきて、澄んだ輝きで川面に宿っている

糺の森
せみの小川

大原へ

その後、長明は正確な時期は不明ですが大原に移り住みます。

むなしく大原山の雲に臥して、また五かへりの春秋をなん経にける。

『方丈記』

大原
大原

大原は古くから平安貴族の隠棲の地であり、数多くの歌に詠まれています。今ものどかな田園風景の中、そこかしこに清水が流れ、山里の風情が漂います。

ただし長明は大原での暮らしについて多くは語りません。具体的な場所も、暮らしぶりも不明です。

日野へ

承元2年(1208)長明は大原を後に、日野に移ります。日野は醍醐と宇治の中間。笠置山を背に負った、のどかな山里です。

日野
日野

鴨長明の遍歴
鴨長明の遍歴

法界寺があり、承久の乱で衰退しますが、長明の時代には広大な伽藍が広がっていました。

法界寺
法界寺

法界寺の脇の道を北に登っていくと、やがて険しい山道になり、山道の途中に「鴨長明 方丈石」が残ります。

日野
日野

鴨長明は庵を自作しました。しかも、組み立て式で、引っ越しの時は持ち運べるようになっていました。

その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて作らず。

『方丈記』

現在、下鴨神社摂社・河合社境内にレプリカが作られています。

下鴨神社摂社・河合社境内 鴨長明の庵のレプリカ
下鴨神社摂社・河合社境内 鴨長明の庵のレプリカ

「方丈の庵」とはいっても、けっこう立派です。これを持ち運ぶのは大変そうです。

『方丈記』には庵での風流な暮らしが美しい文章でつづられています。

春は藤波を見る。紫雲のごとくして西方ににほふ。夏は郭公を聞く。語らふごとに死出の山路を契る。秋はひぐらしの声耳に満てり。うつせみの世をかなしむほど聞ゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし。

近所に住む10歳の男の子と遊んだり、天気のいい時は峰に上って平安京のほうを眺めたり。時には近江まで足をのばして岩間・石山寺を拝んだりと、風流な暮らしぶりが描かれます。

夜の暮らしぶりは、一転して感傷的に書かれています。

もし夜静かなれば、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす。くさむらの蛍は、遠く槇(まき)のかがり火にまがひ、暁の雨はおのづから木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、峯の鹿(かせぎ)の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。

その一方で、久しぶりに都に出ると自分のみすぼらしい姿を恥じ、また山里に帰ってきてはふんこっちのほうがいいやと都の生活を憐れんだりという心の動きもしっかり書かれています。

鎌倉下向

建暦元年(1211)秋から冬にかけて、長明は鎌倉に下向しました。57歳でした。和歌所の同僚・飛鳥井雅経が、前々から長明を誘って将軍源実朝との会見させようとしていたのです。

鎌倉 大倉幕府(当時の将軍御所) 東御門阯
鎌倉 大倉幕府(当時の将軍御所) 東御門阯

飛鳥井雅経は長明より15歳年下。参議という高い位にありました。長明からすると本来、雲の上の人物ですが、飛鳥井雅経は気さくな性格でした。身分も低く人付き合いもヘタな長明と、飛鳥井雅経は懇意に付き合っていました。また飛鳥井雅経は蹴鞠の名家・飛鳥家の祖としても有名です。

白峯神宮 飛鳥井雅経の屋敷跡
白峯神宮 飛鳥井雅経の屋敷跡

白峯神宮 蹴鞠の碑
白峯神宮 蹴鞠の碑

小倉百人一首94番に歌を採られています。

み吉野の山の秋風さよ更けて ふるさと寒く衣打つなり 参議雅経

鎌倉に着いたのが10月10日頃。それから将軍源実朝とたびたび会見したことが『吾妻鏡』に書かれています。ただし会見の具体的な内容は伝わらず、あまりにもそっけない書きっぷりです。何か不愉快なことでもあったのかもしれません。

鴨社の氏人菊大夫長明入道 法名蓮胤、雅経朝臣の挙に依りて、この間下向す。将軍家に謁し奉ること、度々に及ぶと云々。

『吾妻鏡』

また鴨長明が鎌倉滞在中、その日は亡き頼朝公の月並みの命日だということで頼朝公の持仏堂であった法花堂(鎌倉雪ノ下、頼朝の墓の近く)で、念仏読経を行いました。

鎌倉雪ノ下、頼朝の墓の近く
鎌倉雪ノ下、頼朝の墓の近く

列を離れた長明は、柱に一首の歌を書きつけました。

草も木も 靡(なび)きし秋の 霜消て 空(むなし)き苔を 払う山風

もちろん鴨長明は直接頼朝に面識があるわけではありません。長明にとって頼朝は雲の上の人物です。ただ、源頼朝という人物を思う時、長明は、自分の生きた平安末から鎌倉初期という激動の時代を思い、自分自身の波乱の生涯をも重ね合わせて、涙を流したのでしょう。

『方丈記』の成立

こうして鴨長明は鎌倉を後に、日野に戻りました。戻った時期は不明ですが、常識的に真冬の旅は避けるでしょう。建暦元年(1211)11月頃までには日野に戻っていたと思われます。

翌建暦2年(1212)3月末ごろ『方丈記』は完成しました。それは巻末に『建暦の二年(ふたとせ)、弥生のつごもりごろ』とあることから知れます。しかしこの時期に一気に書いたのか、前々から構想していたのか、書き溜めていたのか、説が分かれています。

晩年と死

晩年の長明は執筆活動にいそしみました。『方丈記』のほか、歌についての知識や逸話をあつめた『無名抄』、仏教説話集『発心集』が伝わっています。どちらも執筆時期は不明ですが、『方丈記』以後ではあろうと考えられています。

その後長明はなお数年を生き、健保4年(1216)6月8日(または10日)に死にました。享年62。死んだ場所も、死の様子も、伝わっていません。

長明が死んで三年後の承久元年(1219)、鎌倉で三代将軍実朝が暗殺され、さらに二年後の承久3年(1221)承久の乱が起こります。

9回にわたって鴨長明についてお話してきました。いかがだったでしょうか。次回から、日本地図を作った伊能忠敬についてお話します。お楽しみに。

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第四回。33番紀友則から48番源重之まで。会場の皆様とご一緒に声を出して歌を読み、解説していきます。百人一首の歌のまつわる名所・旧跡も紹介していきますので観光のヒントにもなります。

解説:左大臣光永