鴨長明(七)和歌所

出町柳の鴨川河川敷を歩いていたら、ふだん見慣れない物体が、川中に立ってるんですよ。見ると、石の塔…河原で、石を積み上げて作る、アレでした。十数本立ってました。子供が作ったのか、暇なおっさんたちの仕事か、それはわからんですが、いずれにしてもいい仕事っぷりで、微笑ましく思いました。

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本日は「鴨長明(七)和歌所」です。

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後鳥羽院歌壇の形成

建久9年(1198)後鳥羽天皇は息子の土御門天皇に譲位して上皇となり、院政を開始します。自由な立場になった上皇は、あらゆることに興味を広げていきました。

軍事・政治はもとより、和歌・狩猟・双六・音楽など、およそ当時の男子が関わりうる、あらゆる分野に精力的に取り組みました。特に和歌には熱心でした。多くの歌人を招いて、「後鳥羽院歌壇」ともいえる賑わいが生まれました。

「後鳥羽院歌壇」には慈円・俊成などのベテランもいましたが、まだ実績の乏しい藤原定家や、地下人である鴨長明も招かれました。

後鳥羽院は現時点での実績や身分によらず、将来見込みのある歌人に分け隔てなく声をかけたようです。

藤原定家と鴨長明

藤原定家は日記『明月記』の中に、鴨長明のことを書いています。ちなみにこの年、藤原定家39歳。鴨長明46歳です。

正治2年(1200)9月30日の夕刻、仙洞御所北面で歌合が開かれた。参加した公卿たちは東西二列に分かれて相対して座ったが、一人御殿の庭に帖(畳)をしいて座した男があった。これが鴨長明であったと。

参列者の中では長明がもっとも身分が低く、この待遇は当然なものです。しかし一人御殿に上がれず、晩秋の寒々した風に吹かれている姿。哀れを誘いますね。

この夜の歌合で長明が出した歌は「暁更に鹿を聞く」という題詠で、

今来んと妻や契りし長月の有明の月にを鹿鳴くなり

今夜来るよと妻が約束でもしたのだろうか。長月の有明の月が出ている中、牡鹿が鳴くよ。

というもので勝とされましたが、定家はその判定に意見します。

これは素性法師の「今来んと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな」にそっくりだ。違うのは二句だけだ。本歌取りをするにしても、本歌の上句を下句に用いるなど、工夫があるべきだと。

長明はぐうの音も出ませんでした。しごくまっとうな指摘でした。このように恥をかく場面もありつつ、長明は歌人としての経験を積んでいきました。

和歌所

建仁元年(1201)7月27日、後鳥羽上皇により仙洞御所に和歌所(わかどころ・おうたどころ)が復興されました。天暦5年(951)村上天皇の御代、『後撰和歌集』編纂のため宮中の昭陽舎(梨壺)に設置されて以来、250ぶりの復興でした。

御所は仙洞御所二条殿の殿上の北面に置かれました。

二条殿阯
二条殿阯(中京区御池室町)

二条殿阯
二条殿阯(中京区二条殿町)

二条殿阯
二条殿阯(中京区二条殿町)

寄人として11人が選ばれます。左大臣藤原(九条)良経・内大臣源通親・天台座主慈円・藤原在家・藤原家隆・藤原定家・藤原(飛鳥井)雅経・源通具・源具親・寂蓮・釈阿(俊成)。ついで8月に、地下人より三人追加されます。藤原隆信・藤原秀能・鴨長明。

殿上人11人は上座に、地下人3人は下座に座り、職務に当たりました。長明は「末席に連なった」形ですが、齢46にしてようやく日の目を見ることができた。その喜びは大変なものだったでしょう。

はじめて和歌所の御所に参った時、

我が君の千代を経んとや秋津州(あきつす)にかよひそめけん海士の釣舟

わが君(後鳥羽院)の長寿にあやかろうとして、この日本に卑しい漁師の釣り船が通ってきたのでしょうか。以後、鴨長明は和歌所主催の歌合に参加し、歌人としてのキャリアを重ねていきます。

勅撰和歌集編纂の院宣

建仁元年(1201)11月3日、後鳥羽院より「上古よりの秀歌を選抜せよ(昔からのいい歌を選べ)」という院宣が下りました。命じられたのは和歌所寄人のうち源通具(みちとも)・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の六人でした。『千載集』につぐ、史上8番目の勅撰和歌集の編纂が、始まったのでした。

三体和歌会

編纂事業の傍らも、和歌所の歌人たちは精力的に歌合・歌会を開きました。

建仁2年(1202)3月、後鳥羽院より和歌所の面々に、難しい注文が出されます。

「和歌六首を3つの体に分けて詠むべし」

すなわち春・夏は太く大きく、秋・冬は細くからび(枯れた感じに)、恋・旅は艷やかに優しく。

「ううむ…」

歌人たちは頭を抱えます。主題ごとに歌のスタイルを使い分けろというのです。難しい注文でした。しかも後鳥羽院はこの年23歳とはいえ歌人としては一流であり、歌の批評においても鋭い見識を持っていました。ヘタな歌を詠んだらお叱りを受けるかもしれない。

和歌所寄人の中には「病気」といつわって提出しない者もありました。萎縮してしまったんですね。

結局、歌を提出したのは6人でした。藤原良経・慈円・家隆・定家・寂蓮・鴨長明です。ちなみに6人全員が新古今和歌集に多数の歌を採られ、鴨長明以外の5人は小倉百人一首の歌人でもあります。

後鳥羽院が和歌所に出御すると、各人が自分の作品を披露しました。長明のはすべて『無明抄』に挙げられています。

まず「太く大きなる歌」として

春の歌…

雲さそふ天つ春風薫るなり高間の山の花盛りかも(春)

雲をさそって春風が薫るよ。高間の山の花盛りだなあ。

夏の歌…

打ちはぶき今も鳴かなんほととぎす卯の花月夜さかりふけ行く(夏)

羽ばたいて今にも鳴き出いてほしい、ほととぎすよ。卯の花が月の光のように白く輝き真っ盛りだ。夜はふけていく。

「細くからびたる歌」として、

秋の歌…

宵の間の月の桂のうすもみぢ照るとしもなき初秋の空(秋)

宵の間に出た月が、月に生えているという桂が薄く紅葉したように、照るというほどでもなく、うっすらと見えている初秋の空だよ。

冬の歌…

さびしさはなほ残りけり跡絶ゆる落葉が上に今朝は初雪(冬)

さびしさはそれでもやはり残っているなあ。訪れる人の足跡もとだえた落葉の上に今朝は初雪が降って、落葉を覆い隠してはいるが。

「艷に優しき歌」として、

恋の歌…

忍ばずよしぼりかねつと語れ人もの思ふ袖の朽ちはてぬまに(恋)

もう私は我慢しないよ。涙に袖をしぼりかねていると語ってくれ、それを見た人よ。もの思いの涙で私の袖が朽ち果ててしまわないうちに。

旅の歌…

旅衣たつ暁の別れよりしをれしはてや宮城野の露(旅)

旅の衣をしたてて旅立つ暁の別れの涙。それが萎れ果てた末の姿だろうか。この宮城野の露は。

次回「和歌所を去る」に続きます。お楽しみに。

講演会のお知らせ

■9/29 静岡講演「徳川家康の生涯」
http://shizuoka-doshishaclub.canariya.net/

第一回は松平氏の系譜から、今川家人質時代、桶狭間の合戦、三方ケ原の合戦まで。特に合戦のくだりは地図を示しながら、詳しく解説していきます。史跡歩き・古戦場歩きのヒントともなります。

■10/27 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
http://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info.html

第四回。33番紀友則から48番源重之まで。会場の皆様とご一緒に声を出して歌を読み、解説していきます。百人一首の歌のまつわる名所・旧跡も紹介していきますので観光のヒントにもなります。

解説:左大臣光永