徳川慶喜、将軍就任

関東大震災(20分)

伊藤博文暗殺事件(9分)

韓国併合(32分)

清少納言と紫式部(15分)

「歴史とは何か?」(15分)

慶応2年(1866)12月、徳川慶喜が15代将軍に就任します。慶喜は将軍就任早々、フランス式の軍制をとり入れ、幕政改革に乗り出します。

「京都で学ぶ 歴史人物講座」第二回「行基と鑑真」
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慶喜、徳川本宗家を相続

慶応2年(1866)7月20日、第二次長州征伐のさなか、大坂城で14代将軍家茂が亡くなります。21歳の若さでした。

次の将軍として、一橋慶喜に期待が集まります。老中板倉勝静(かつきよ)は、関白二条斉敬(なりゆき)に、慶喜に将軍宣下が下るよう、働きかけました。しかし当の慶喜は乗り気ではありませんでした。

「将軍には紀州藩主の徳川茂承(もちつぐ)殿こそふさわしい。私は将軍補佐ならやります」

そう言って拒みました。しかし是非にといわれて、7月27日、徳川宗家の相続だけは受け入れました。しかし将軍の位だけはどうあっても拒みました。そのため、将軍のいない「将軍空位期」が、これから4ヶ月間にわたって続くこととなります。

長州征伐の終わり

慶喜が徳川本宗家を継いだ時、まだ長州征伐は続いていました。慶喜は「大討込(おおうちこみ)」と称して、自ら軍勢を率いて、長州に対する徹底した武力攻撃を行うつもりでした。

「このたび私が出馬する以上は、千騎が一騎となっても、かならず山口まで攻め入り、勝敗を決する覚悟である。皆も同じ覚悟なら着いてまいれ。覚悟がないなら来なくて良い」

旗本一同にそう発言するほど、慶喜は自信満々でした。

8月8日、参内した慶喜に、孝明天皇より将軍の証である「節刀」が授けられ、慶喜はいよいよ広島に向けて出陣する準備を進めていきました。

ところが8月12日、慶喜は突如、出陣を中止します。老中板倉勝静が大坂から上洛し、小倉城が落ちたことを告げたのでした。

慶喜の戦意はとたんに萎えます。慶喜は方針を180度変えて、朝廷に働きかけ、将軍の死を理由に休戦命令を出させます。

9月2日、厳島にて、幕府側勝海舟、長州側広沢真臣(さねおみ)・井上聞多らが会見し長州が撤退する時攻撃しない条件で、休戦協定が結ばれました。ここに第二次長州征伐は終わりました。

慶喜、将軍就任

慶応2年(1866)11月27日、孝明天皇より徳川慶喜に征夷大将軍宣下の内示が伝えられます。そして12月5日、慶喜は二条城にて15代征夷大将軍の宣下を受けました。30歳でした。

慶喜自身は、同年7月に徳川本家をついだものの、将軍になることは拒み続けていました。おそらく幕府が落ち目なのを見て、損得計算をしていたのでしょう。機が熟して、多くの人から推薦された上で将軍になろうと図っていたのでしょう。

将軍就任後、慶喜は江戸に戻らず、二条城南西の「若州屋敷」とよばれた旧酒井若狭守の屋敷(若州小浜(じゃくしゅうおばま)藩邸)に入り、ここに慶応3年(1867)9月まで滞在します。

慶喜が江戸城にもどらなかった理由は複数あります。畿内の情勢が逼迫しており、江戸に戻る暇がなかったこと。薩長をはじめ幕府に反抗的な藩は西日本に集中するため、これらを監視するには江戸より京都が都合がよかったこと。江戸城にいる老中たちや大奥といった旧弊な仕組みと距離を置き、独自に政治の舵取りをしたかったこと。天皇との結びつきを強め、天皇の権威によって失われた幕府の権威を立て直そうとしたことなど。

しかし江戸では反発が高まりました。「なぜ今度の将軍さまは江戸に戻らないんだ」「京都にかぶれやがって」と。

その上、慶喜が大のフランスかぶれであったことも、庶民や幕臣からの反発を招きました。

「フランスの軍服を着て、フランスの料理を食ってるってさ」
「とんでもねえ似非公方だ!」と。

孝明天皇、崩御

慶応2年(1866)12月11日、孝明天皇は宮中の内侍所で午後7時から11時まで、神楽をご覧になりました。この時は風邪気味でした。翌12日より発熱します。その後数日間は高熱が続き、食事もままならず、うわ言を言うというありさまでした。

16日、全身に発疹があらわれ、17日、医者から正式に痘瘡(とうそう)と発表されました。その後、発疹はしだいに回復に向かうも、24日夜、突然容態が急変。吐き気をもよおし、痰も多く、慶応2年(1866)12月25日午後11時すぎ、崩御となりました。享年36。徳川慶喜が将軍に就任してから20日後の崩御でした。

かわって16歳の佑宮(さちのみや)睦仁(むつひと)親王が践祚します。明治天皇です。

孝明天皇毒殺説

一度回復に向かった病状が突如悪化したことから、当時から毒殺説がささやかれました。現在でも毒殺説をとる歴史学者もいます。

アーネスト・サトウによると、孝明天皇は大の外国嫌いであったから、来るべき新時代に外国と通商関係を築いていくのにこういう保守的な君主は邪魔だ。だから毒殺されたと。

しかしこれは妙な話です。孝明天皇はたしかに保守的な天皇でしたが、いやいやながらも条約に勅許を下しました。あえて毒殺までやる必要があるとも思えません。

また孝明天皇は公武合体=佐幕派なので、倒幕派によって毒殺されたいう説もあります。中にも岩倉具視を黒幕と見る説があります。この頃、岩倉具視は京都郊外の岩倉に隠居して、王政復古のための策を練っていました。しかし仮にも孝明天皇の侍従、近習までつとめた岩倉が天皇を殺すでしょうか?たしかに孝明天皇の崩御によって、以後、倒幕派に有利な状況になってはいくのですが、それはあくまで結果論だと思います。

結局、真相は「わからない」の一言です。しかし個人的には単なる病死じゃないかなと思います。

兵庫開港問題

慶応3年(1867)3月28日、イギリス・フランス・オランダの意見を容れて、兵庫を開港することを約束します。

5月14日、薩摩の島津久光(しまづ ひさみつ)、宇和島の伊達宗城(だて むねなり)、越前の松平春嶽、土佐の山内容堂(やまのうち ようどう)が上洛。二条城にて徳川慶喜と相対します。彼らが言うことは、

一、兵庫を開港するなら正式に朝廷からの勅許を得た上で開港すべきだ
一、長州藩の罪を取り消すべきだ
一、勝手に兵庫開港を約束した責任を取って、将軍は辞任すべきだ

薩摩としては、勝手に兵庫を開港したという点に難癖をつけて、幕府から政治の実権を奪おうという狙いがありました。

しかし慶喜は、

「今は長州藩のことより、開港問題を優先させるべきだ」

などと言って、のらりくらり話を引き伸ばします。島津・伊達・松平・山内の四侯は振り回されるばかりでした。結局、なにもなすことの無いまま、引き上げていきます。

慶喜は5月23日に参内。兵庫開港について夜を徹して15歳の明治天皇に説得し、ついに勅許を得ました。大の外国嫌いの孝明天皇では、こうは行きませんでした。孝明天皇の崩御は、大の開国論者である慶喜にとっては、一面、好都合だったと言えます。

6月6日。幕府は12月7日からの兵庫の開港、および江戸と大坂に外国人の居留地をもうけることを宣言しました。

薩摩・長州はこうした慶喜の立ち回りに、危機感をおぼえます。無能なお飾りかと思ったら、意外とやる。これはウカウカしていると、こっちが潰されると。倒幕への動きが早まっていきます。

慶応の幕政改革

四侯会議(しこうかいぎ)を乗り切った慶喜は、大規模な幕政改革に乗り出します。慶喜以前から、幕府はフランス公司ロッシュの意見を入れて、フランス式の軍制をとり入れていましたが、慶喜はその流れをいっそう押し進めました。

歩兵・騎兵・砲兵の三兵にフランス式調練を行い、軍服もフランス式の身軽なものにしました。

鋳砲所、火薬製造所、製鉄所を建設し、西洋式の武器をつくりました。

また老中による合議制をやめて、陸軍・海軍・外国事務・会計・国内事務の5つの部署を置き、それぞれの総裁の下に専任の老中を置きました。ヨーロッパの内閣制度にならったものでした。

「幕府はたかが長州一国にすら勝てなかった。傾いた幕府を立て直すには、一にもニにも軍事力だ」

との反省から、軍事改革は急速に進められました。

また慶喜はフランスとの結びつきを強めるため、慶喜の義弟の徳川昭武(あきたけ)を、慶喜の名代としてパリ万国博覧会に派遣しました。

次回「大政奉還」に続きます。

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解説:左大臣光永