大政奉還

関東大震災(20分)

伊藤博文暗殺事件(9分)

韓国併合(32分)

清少納言と紫式部(15分)

「歴史とは何か?」(15分)

こんにちは。左大臣光永です。

しばらく実家の熊本に滞在しています。先日は、熊本県北部の山鹿(やまが)で温泉に入ってきました。つい昨日まで、「山鹿灯籠まつり」をやっていたので、まだポスターが貼ってあり、祭りの興奮が残っている感じでした。露天風呂の水面に夏木立が濃い影をおとして、セミが鳴きしきり、いい風情でした。

本日は「大政奉還」について語ります。

慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出。翌15日、朝廷はこれに勅許を下し、260年あまりにわたる江戸幕府の歴史に幕がおろされました。

※すみません。メルマガの文面は日付が一日、ずれていました。↑こっちが正しいです。

二条城 二の丸御殿
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後藤象二郎・坂本龍馬の会見

慶応3年(1867)2月、前土佐藩主山内容堂の腹心・後藤象二郎が長崎で坂本龍馬と会見します。

後藤はかつて武市瑞山(たけち ずいざん)の土佐勤王党を弾圧した張本人です。そして坂本龍馬は土佐勤王党の一員です。しかも龍馬は土佐藩を脱藩しています。後藤にとって坂本龍馬は敵といってもいい相手でした。

一方、坂本龍馬にとっても後藤象二郎は盟友武市瑞山の敵であり油断ならない相手でした。後藤と坂本はこのように立場上、敵同士だったのですが、お互いがお互いを利用しようという腹のもと、長崎で会見しました。

後藤象二郎の考えはこうでした。

土佐藩は文久2年・3年の、尊皇攘夷の掛け声いさましかった時代には、薩摩・長州にならぶほどの勢いがあった。しかしその後は、薩摩・長州におされ、世相に出遅れた感がある。土佐藩を建て直さなければならない。そのために、坂本龍馬の営む貿易会社・亀山社の力を利用する、というものでした。

会見の結果、坂本と後藤は薩摩・長州・土佐の連合政権の樹立に向けて協力しあうことを約束しました。また坂本龍馬の運営する亀山社を、土佐藩公認の組織とすることも決めました。

こうして亀山社をもとに海援隊が設立され、坂本龍馬が隊長に任命されます。

また、坂本龍馬と同じ土佐勤王党の中岡慎太郎も、脱藩の罪をゆるされ、陸援隊の隊長とされました。

船中八策

慶応3年(1867)6月9日、後藤と坂本は土佐藩の船「夕顔丸」に乗り、京都に向かいました。徳川将軍が平和的に朝廷に政治権限を返す、という坂本龍馬のプランを、京都滞在中の山内容堂に話して説得するためでした。

その船中で、坂本龍馬は大政奉還後の国家についての構想を八項目にまとめました。いわゆる「船中八策」です。

その内容は、諸般や民間から広く人材を登用し、議会を開き、合議政治を行うというものでした。後の明治政府の「五箇条の御誓文」に近いものでした。

坂本龍馬の「船中八策」を受けて、後藤象二郎はあらためて大政奉還のプランをまとめ直します。すなわち、

徳川将軍が朝廷に平和的に大政を奉還する。その後は上下二院制による列藩会議を設置する。その議長には、徳川将軍が就任する。名目上は朝廷による一元政治とするが、徳川家の権威は持続させる。

というものでした。

薩土盟約

慶応3年(1867)6月13日、後藤象二郎は京都土佐藩邸に入ります。しかし山内容堂はすでに土佐に帰国した後でした。

京都では薩摩による武力倒幕の動きが強まっていました。何が何でも、幕府をブッ潰すのだと、鼻息を荒げていました。後藤象二郎は、その動きを封じるため、6月22日、薩摩藩と会合を持ちました。

薩摩側代表、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀ら。土佐側代表、後藤象二郎、福岡孝弟(たかちか)といった面々でした。坂本龍馬と中岡慎太郎も土佐側として列席しました。

「大政奉還!」

「そうです。幕府が平和的に政権を朝廷にもどす。これなら薩長としても、ムダに戦う必要がなくなる。幕府にとっても、薩長にとっても、いい話です」

「そうは言っても、将軍家が自ら政権を手放すわけはない」

「そうだ。大政奉還など、絵に描いた餅だ」

「やはり武力倒幕以外に手はない」

薩摩側は頑固でした。しかし土佐側は、

「大政奉還がならない場合は、土佐も薩長の武力倒幕に加わります」

そうまで言うので、薩摩側としては、どうせ大政奉還など実現しない。これは土佐藩の軍事力を味方に引き込める、言質が取れたと、大政奉還案に同意しました。

こうして、慶応3年(1867)6月22日、京都三本木の料亭で大政奉還をもりこんだ土佐藩と薩摩藩の約定が結ばれました。いわゆる「薩土盟約」です。

慶応3年(1867)7月、後藤象二郎らは土佐に戻り、山内容堂に大政奉還のプランをしめします。山内容堂はこれならいいだろうと許可を下しました。9月4日、京都に戻り、10月3日、山内容堂の名で、老中板倉勝静(かつきよ)を通して大政奉還の建白書を幕府に提出しました。

一方、薩摩はあくまでも武力倒幕をもくろんでいました。大久保利通・岩倉具視が中心となり、倒幕の密勅をえようとして、朝廷にはたらきかけていました。

大政奉還の上表

徳川慶喜は、幕府の運営に行き詰まりを感じていました。薩摩長州が倒幕運動をすすめ、イギリスがそれを後押ししている。

幕府はそれに対抗してフランスの後押しを受けて幕政改革をすすめてはいるが、思ったほど成果はない。長州一藩と戦してすら、幕府は勝てなかった。諸般は幕府のいうことをきかなくなっている。民間からも幕府に対する非難の声があがっている。

どう見ても、徳川幕府は、八方塞がりでした。

どうにかしなければ。

思い切った手を打たなければ。

そこに飛び込んできたのが大政奉還のプランです。

徳川将軍が朝廷に平和的に大政を奉還する。その後は上下二院制による列藩会議を設置する。その議長には、徳川将軍が就任する。名目上は朝廷による一元政治とするが、徳川家の権威は持続させる。

なるほど、これなら徳川の権威は残せる。たしかに徳川幕府はなくなるが、そんな名目など、どうでもいい。名より実が大事だ。

どうせ大政を奉還しても、朝廷には実務を行うノウハウがない。結局、元将軍や元幕臣に頼らざるをえない。その意味からも、徳川の政治実権は残したままにできる。

こうした考えのもと、徳川慶喜は大政奉還を実行することに決めました。

慶応3年(1867)10月12日、徳川慶喜は、二条城に在京の幕府官吏を招き、大政奉還の意思を告げます。

10月13日、二条城に在京10万石以上の四十の藩の重臣をまねき、大政奉還の意思をつげ、また意見を求めます。

二条城 二の丸御殿
二条城 二の丸御殿

10月14日、高家の大沢基寿(もとひさ)を参内させ、大政奉還の上表を提出。

10月15日、慶喜はあらためて参内し、大政奉還の趣旨をのべました。朝廷はこれに勅許を下し、大政は奉還されました。

ここに260年あまり続いた徳川幕府は、幕をおろしました。

10月16日、慶喜は二条城に在京の10万石以上の諸藩の重臣を招集。大政奉還がなったことを告げます

10月17日、1万石以上の諸藩の重臣にも大政奉還がなったことを告げました。

これに先駆ける10月13日には、岩倉具視はじめ王政復古派の画策により、朝廷から薩摩・長州に倒幕の密勅が下っていました。ただし、書式があやしいのでニセモノ説が濃厚です。

岩倉具視らは幕府を潰すと鼻息を荒げていたわけですが、平和的に大政が奉還されたことにより、薩長による武力倒幕は、大義名分を失いました。

10月24日、慶喜は将軍職の辞表を朝廷に提出します。徳川慶喜のすばやい政治判断の前に、薩摩・長州はいったんは出し抜かれた形となりました。

次回「近江屋事件 坂本龍馬の最期」に続きます。

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解説:左大臣光永