鳥羽・伏見の戦い(一)

関東大震災(20分)

伊藤博文暗殺事件(9分)

韓国併合(32分)

清少納言と紫式部(15分)

「歴史とは何か?」(15分)

こんにちは。左大臣光永です。

マイクスタンドのアームを水平にして、服をひっかけるハンガーとして使ってたんですが、時々ガタッとくずおれるようになってきました。一本足にすべての重量がかかるので、支える力が弱いです。モノを支えるには二つの支点がいるなと、あらためて実感しております。

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将軍の座を追われながらも中国毛利領に亡命し、広島鞆の浦で独自に活動をつづけた、最後の将軍足利義昭。その数機な生涯について語ります。

………………

本日のメルマガは「鳥羽・伏見の戦い(一)」です。

慶応4年(1868)正月1日、徳川慶喜は「討薩の表」をあらわし、薩摩の暴虐を訴えました。これは新政府に対する事実上の宣戦布告でした。

正月2日の状況

慶応4年(1868)正月2日午前、老中格大河内正質(おうこうち まさただ)を総督、若年寄塚原昌義(つかはら まさよし)を副総督とした1万の旧幕府軍が、京都に向けて大坂城を出発します。大坂城には後詰として5000の兵が残されました。

2日夕方、軍勢は淀に到ります。

淀城
淀城

幕府陸軍奉行・竹中重固(たけなか しげかた)の指揮する先遣隊はさらに北上し伏見奉行所に入ります。

伏見奉行所跡
伏見奉行所跡

残りは淀城を本陣として駐屯。この後、会津藩兵を先鋒とする一手が伏水街道へ、桑名藩兵を先鋒とする一手が鳥羽街道に進み、正月3日に合流して京都になだれこむ予定でした。

一方、薩摩・長州・彦根藩兵を中心とする新政府軍はあわせて4500。旧幕府軍の半分以下です。

しかし西郷隆盛は「玉(ギョク)=天皇をおさえてるほうが勝つ。敵が何万いようと恐れるに足らぬ」と檄を飛ばしました。

新政府軍は鳥羽街道の北の起点近い四ツ塚(京都市南区四ツ塚町)と伏見奉行所(京都市伏見区西奉行町 桃陵団地内)の北に関所を設け、旧幕府軍の進撃を食い止めようとします。

正月3日 鳥羽街道の戦い

正月3日午前、新政府軍が鳥羽街道を南下。鴨川にかかる小枝橋(こえだばし)を渡り、鳥羽街道の左右に兵力を展開し、鳥羽街道東側に大砲を設置。

現 小枝橋
現 小枝橋

両陣営は午後4時頃、赤池(現千本通赤池)で向かい合います。

「我々は慶喜公の無実を朝廷に訴え、君側の奸を除かんがため、京都に上ろうとしているのである。通されよ」

「そのような指示は受けていない。戻られよ」

双方一歩も譲らず、にらみあいが続きますが、旧幕府軍はしびれを切らして二列縦隊で強行突破を図ります。

その時、

ターーーン

薩摩藩兵が放った一発の銃弾を合図に、

ターン、タン、ターン

ドゴン、ドゴーーン

鳥羽・伏見戦跡
鳥羽・伏見戦跡

新政府軍の鉄砲・大砲が、いっせいに火をふきました。攻撃を命じたのは「人斬り半次郎」こと桐野利秋でした。桐野は西郷から、先制攻撃をしかけるよう命じられていました。

鳥羽・伏見の戦い勃発の地 碑
鳥羽・伏見の戦い勃発の地 碑

旧幕府軍はまさかここで戦闘になるとは予想していなかったため、銃弾さえ装填していませんでした。混乱状態に陥りました。

慶応4年(1868)正月3日、これが戊辰戦争の幕開けとなりました。

戦闘が始まった時、西郷隆盛は京都二本松の薩摩藩邸で指揮をとっていましたが、開戦の第一報を受けて、

「鳥羽の一発の砲声は、百万の味方を得たよりもうれしい」

そう言って喜びました。

ニ本松薩摩藩邸跡
ニ本松薩摩藩邸跡

旧幕府軍はなんとか体制を立て直すも、装備が重く、新政府軍の最新式の銃の前に次々と倒されます。旧幕府軍は指揮官クラスこそ最新式の装備をしていたものの、多くは旧式の銃に羽織袴でした。その上、みぞれまじりの雨が振り、羽織袴が雨をふくんで重く、どうにもなりませんでした。

鳥羽街道は、逃げ惑う旧幕府軍で溢れかえりました。下鳥羽にいた桑名藩砲兵隊が援護射撃をして、旧幕府軍の撤退を助けました。

旧幕府軍は米俵で組まれた臨時の陣地(俵台場)に収容されました。

夜になると新政府軍は攻撃をやめて、自軍に退きました。

正月3日 伏見の戦い

伏見では新政府軍が御香宮神社に布陣していました。

御香宮神社
御香宮神社

御香宮神社は、神功皇后はじめ六柱の神々を祭る、安産守護の神社です。

平安時代、境内より香り立つ湧き水が湧いたので、清和天皇より「御香宮」の名を賜りました。

豊臣秀吉が社殿を寄進し、その後徳川家康も、御三家も社殿を寄進しました。徳川家、とくに御三家にきわめて結びつきの強い神社です。

慶応4年(1868)正月3日午後5時頃、鳥羽方面の砲撃が響いてくると、御香宮神社東側台地(現 龍雲寺(桃山善光寺))に砲兵陣地をしいていた大山弥助(巌)が、大手筋通をはさんで目と鼻の先の伏見奉行所に砲撃を開始します。

龍雲寺(桃山善光寺)
龍雲寺(桃山善光寺)

伏見奉行所跡
伏見奉行所跡

土方歳三率いる新選組は、伏見奉行所の表門を開き、会津藩兵とともに新政府軍の中に切り込んでいきます。

(近藤勇は御陵衛士の残党に肩を射抜かれて負傷していたため、大坂城内で療養中だった)

御香宮神社前の大手筋通りを隔てて、北に新政府軍、南に旧幕府軍と相対して向かい合い、激しい市街戦が繰り広げられました。

大手筋通り
大手筋通り

伏見の料亭「魚三楼」に残る銃弾の跡は、戦いの激しさを今に伝えています。

魚三楼
魚三楼

魚三楼 弾痕
魚三楼  弾痕

一時は新選組や伝習隊のはたらきで、薩摩二番隊・四番隊の布陣する桃山を奪いました(明治天皇陵の西あたり?)。

しかし新政府軍の銃撃・砲撃はたえまなく、旧幕府軍の多くが銃弾に倒れました。

中にも、会津の大砲奉行・林権助(安定)は、八発も被弾し、顔を半分失って座り込みながらも指揮をとりましたが、戦死しました。

戦いは深夜におよびます。

ドーーン、ドッカーーン

ついに新政府軍の放った砲弾が伏見奉行所の火薬庫に着弾。爆発します。

午前0時、新政府軍が伏見奉行所に突入。建物が炎につつまれると、旧幕府軍はやむなく伏見奉行所を放棄。中書島・浜町(桂川のほとり)方面に撤退していきました。

新政府軍は退却する際、伏見の町に火をかけました。風にあおられて火はまたたく間に燃え広がり、狭い伏見の町は炎に包まれました。町人・農民はにげまどいました。

正月4日未明 仁和寺宮嘉彰親王、征討大将軍に任じられる

薩摩の西郷隆盛・大久保利通は、思いがけない勝利に気をよくしました。この上は、旧幕府軍を徹底的に痛めつけねばならぬ。そこで、仁和寺宮嘉彰親王を軍事総裁に任命するよう、朝廷に働きかけます。

正月4日未明、仁和寺宮嘉彰(にんなじのみや よしあきら)親王は朝廷より「征討大将軍」に任じられ、錦旗(錦の御旗)と節刀(朝敵を討つための刀)を授けられます。親王は薩摩・広島藩兵を率いて、東寺まで進み、ここに大本営を置きました。

東寺
東寺

東寺は鳥羽街道の、ほぼ北の起点にあたります。ここから鳥羽街道を南下し、旧幕府軍のたてこもる淀城をめざすのです。

錦の御旗の出御により、薩摩・長州は「官軍」となり、旧幕府軍は「賊軍」となりました。

ところで、この時の錦の御旗はニセモノであったという人がいます。

この時の錦の御旗は、岩倉具視が国学者の玉松操にデザインさせ、大久保利通が囲っていた祇園一力亭の芸妓・お勇に西陣の呉服屋から大和綿と紅白の緞子を買ってこさせ、これを品川弥二郎が長州に持ち帰って作ったものです。

本来「錦の御旗(錦旗)」とは、朝敵を討伐する将軍に対して、朝廷から与えられるものです。承久3年(1221)後鳥羽上皇が城南宮の馬場で開催した流鏑馬にことよせて、武将十人に下したのがはじめとされます。それを討伐する側で勝手に作ったから、ニセモノだという理屈です。

私はこの意見には同意しません。

たとえハンカチ一枚でも、天皇の勅許があればそれは「錦の御旗」です。天皇の勅許がある以上、作られたいきさつがうさん臭いからといって、ニセモノとは言えません。

だからこの時の「錦の御旗」は「本物」と言っていいと、私は思っています。

新政府軍はきちんと有職故実を調べた上で、それっぽいものを作っているので、まあ丁寧な仕事をしたと言えるんじゃないでしょうか。

正月4日 鳥羽街道の戦い

正月4日の戦況は一言でいえば「一進一退」でした。

正月4日早朝、下鳥羽の旧幕府軍が徳川の葵の大旗を翻しながら、二列縦隊で鳥羽街道を北上。小枝橋東に布陣していた新政府軍に攻撃をしかけました。

現 小枝橋
現 小枝橋

しかし、鳥羽街道を取り巻くように布陣していた新政府軍の射撃・砲撃の前になすすべもなく、旧幕府軍はふたたび鳥羽街道を下鳥羽まで南下。

新政府軍はここぞと旧幕府軍の陣地に攻撃をかけるも、米俵の間から射撃され、近づくことも難しく、いったん、後退。

新政府軍は歩兵で俵台場を攻めるのはムリと判断。今度は大砲を前線にすえ、砲撃を加える。そこへ伏見方面から薩摩の増援がかけつけ、東側から銃撃。

ニ方面から攻められて旧幕府軍は、桂川に面した富ノ森まで撤退。

そこへ新政府軍が進撃してくると、旧幕府軍は富ノ森からさらに南の納所(のうそ)(現淀競馬場のあたり)まで撤退。

納所 鳥羽伏見之戦跡碑
納所 鳥羽伏見之戦跡碑

新政府軍は富ノ森を占拠するとさらに納所まで進撃。この時、旧幕府軍は富ノ森から納所にかけての街道沿いに伏兵をひそませており、新政府軍が進撃してくると、側面から襲いかかる。

「伏兵だ!」

不意をつかれた新政府軍はふたたび鳥羽街道を北上して、下鳥羽まで撤退しました。旧幕府軍はいったん奪われた富ノ森の陣地を奪い返しました。

正月4日 伏見の戦い

伏見では、前日に伏見奉行所を逐われた旧幕府軍が伏見市街地の入り口、濠川右岸(西側)に布陣していました。

濠川
濠川

4日早朝、濃霧の立ち込める中、新政府軍が濠川左岸(東側)から攻撃をしかけました。濠川にかかる毛利橋・阿波橋・肥後橋付近で激しく砲撃戦が行われましたが、

現 毛利橋
現 毛利橋

現 阿波橋
現 阿波橋

現 肥後橋
現 肥後橋

午前10時頃、旧幕府軍は総崩れとなり、淀に撤退していきました。

淀城
淀城

この時、伏見の旧幕府軍の指揮官・竹中重固は作戦会議のため淀にもどっていました。指揮官を欠いたことが、統率が取れずあっけなく撤退した理由と思われます。

次回「鳥羽・伏見の戦い(ニ)」に続きます。

参考文献

『日本の歴史20 明治維新』井上清 中公文庫
『戦況図解 戊辰戦争』木村幸比古監修 サンエイ新書
『徳川慶喜』松尾正人 山川出版社
『人物叢書 徳川慶喜』家近良樹 吉川弘文館
『薩長史観の正体』武田鏡村 東洋経済
『幕末史』半藤一利 新潮社
『図説 戊辰戦争』木村幸比古監修 河出書房新社
『幕末維新伝』木村幸比古 淡交社
『一外交官の見た明治維新』アーネスト・サトウ 坂田精一訳 岩波文庫

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大石内蔵助と元禄赤穂事件(松の廊下篇)オーディオCD版
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「忠臣蔵」として有名な「元禄赤穂事件」。家老大石内蔵助、藩主浅野内匠頭長矩の系譜、刃傷松の廊下、赤穂城引き渡し、内蔵助の山科隠棲…特に、大石内蔵助と堀部安兵衛の関係を軸に語っています。

京都で学ぶ歴史人物講座~足利義昭 10/26
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将軍の座を追われながらも中国毛利領に亡命し、広島鞆の浦で独自に活動をつづけた、最後の将軍足利義昭。その数機な生涯について語ります。

解説:左大臣光永