鳥羽・伏見の戦い(ニ)

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こんにちは。左大臣光永です。

私は外出先でメモするとき、ボイスレコーダーを使ってたんですが、最近はスマホに切り替えてます。スマホの音声認識の精度が上がってきたためです。その場で文章化されるので、後で聞き直す手間がなくてよいです。専門的な用語が入るとまったくダメですが、ふつうの会話ていどなら、スマホでじゅうぶん書き出せますね。技術の進歩は、すばらしいです。

本日は「鳥羽・伏見の戦い(ニ)」です。

慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いは、旧幕府軍・新政府軍の最初の武力衝突でした。主に鳥羽街道沿い、伏水(伏見)街道沿いで戦われたので、「鳥羽・伏見の戦い」といいます。

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正月5日の状況

正月5日早暁、新政府軍は全軍を三手に分け、伏水街道・鳥羽街道・山崎街道(西国街道)を通って、旧幕府軍の拠点・淀に向けて進撃を開始します。旧幕府軍はこれを迎え撃つべく、伏見方面・鳥羽方面・山崎方面にそれぞれ部隊を展開しました。

鳥羽・伏見の戦い 正月5日の状況
鳥羽・伏見の戦い 正月5日の状況

正月5日 鳥羽街道の戦い

正月5日朝7時頃、鳥羽街道を南下する新政府軍は、旧幕府軍のたてこもる富ノ森近くまで迫りました。ここで旧幕府軍の大砲が一斉に砲撃を開始、新政府軍は苦戦を強いられます。

薩摩藩砲兵隊長の大山弥助(巌)は自ら抜刀し、「砲を捨て、銃を取れ」と、敵陣への突撃を命じます。これに周囲の部隊もならい、砲弾の飛び交う中、富ノ森に突撃していきます。

旧幕府軍はその勢いに押され、富ノ森の陣地を放棄。富ノ森南の納所(のうそ。淀競馬場あたり)まで撤退します。

新政府軍は富ノ森の陣地を奪うと、そのまま納所まで迫り、攻撃をしかけます。午後2時頃、旧幕府軍は納所を放棄し、淀に撤退していきました。

この日、仁和寺宮嘉彰親王は錦の御旗を掲げて、淀付近まで進みました。翻る錦の御旗を見て、ああ…俺たちは朝敵なんだ。賊軍なんだと旧幕府軍は大いに意思をくじかれました。

正月5日 千両松の戦い

一方、伏見方面では。伏見から淀までは宇治川と桂川に挟まれた狭い堤防道であるため、新政府軍は密集縦隊で進みました。途中、千両松(京都市伏見区横大路千両松町)で旧幕府軍とぶつかります。

千両松の戦い
千両松の戦い

戊辰戦争 淀千両松の戦いの碑
戊辰戦争 淀千両松の戦いの碑

対する旧幕府軍は、土方歳三率いる新選組、佐川官兵衛率いる別選組、遊撃隊などでした。幕末最強の剣士集団であり、当然槍や刀で向かっていきました。

これに新政府軍は最新式の銃や大砲で攻撃を加えました。その圧倒的な火力の前に、旧幕府軍はじょじょに追い詰められていきました。

午前10時頃戦いが始まり午後2時頃には終わっていました。宇治川沿いに、旧幕府軍の死体が累々と散らばりました。土方歳三はこの日の戦いで確信しました。「もう槍や刀の時代ではない」と。

新政府軍は千両松を抜いて、旧幕府軍の本拠地・淀に迫ります。

新政府軍、淀へ
新政府軍、淀へ

正月5日 淀の戦い

鳥羽街道・伏水街道の両方で負けた旧幕府軍は、体制を立て直すべく淀城に引き返そうとしました。しかし、予想外の出来事が起こります。淀藩が城門を閉ざし、旧幕府軍の入城を拒んだのです。

淀城
淀城

「そんなバカな!」

淀城主・稲葉正邦は目下、老中として江戸にありました。よって淀城では城主が不在である。城主不在では判断ができない、というのが表向きの理由でした。実際は、留守を預かる家老たちが、旧幕府軍の負けっぷりと錦の御旗の出御を見て、旧幕府軍を見限ったのです。

淀には、新政府軍が押し寄せ、民家を砲撃して焼きました。淀城ではおとなしく門を開き、新政府軍を迎え入れました。

「かくなる上は…木津川の南で体勢を立て直すのみ」

旧幕府軍はやむなく淀を放棄し、宇治川にかかる淀小橋、木津川にかかる淀大橋を焼いて、新政府軍の足を止めると、八幡(やわた)・橋本方面に向いました。

旧幕府軍、八幡・橋本へ
旧幕府軍、八幡・橋本へ

(現在、宇治川は淀城の南を流れるが、当時、北を流れていた。淀大橋は現在は木津川でなく宇治川にかかる)

正月6日 津藩の裏切り

淀を逐われた旧幕府軍は八幡・橋本(京都市八幡市橋本)一帯に布陣して、新政府軍を迎え撃つ体勢を取ります。

橋本 楠葉台場跡
橋本 楠葉台場跡

橋本 楠葉台場跡
橋本 楠葉台場跡

正月6日早朝、新政府軍は木津川を船で渡り、旧幕府軍の布陣する八幡・橋本に砲撃を開始。しかし旧幕府軍の抵抗はげしく、なかなか打ち破れない。戦闘は膠着状態に入ります。

ところが正午頃(午前10時とも)、事態が一変します。

橋本の西には淀川をはさんで山崎の関があり、淀川に面した高浜台場で、津藩の兵約1000が守備に当たっていました。

高浜砲台跡
高浜砲台跡

高浜砲台跡から淀川を隔てて男山方面をのぞむ
高浜砲台跡から淀川を隔てて男山方面をのぞむ

その津藩1000が、突如、対岸の旧幕府軍に向けて砲撃してきたのです。

津藩、旧幕府軍を砲撃
津藩、旧幕府軍を砲撃

「津藩が裏切りだと!」

津藩は初代藤堂高虎以来、徳川に忠誠篤い藩ですが、この前日、朝廷からの勅使・四条隆平(たかとし)が来て、厳しく詰め寄りました。

「ただちに官軍側につけ。その第一歩として、目の前の幕府軍を攻撃せよ」と。

津藩の隊長を藤堂采女(うねめ)といい、藩主の家柄につらなる者でした。辛い立場でした。采女は6日早朝、橋本の旧幕府軍陣営に手紙を送っています。

「徳川家の恩はあえて忘れはしないが、勅命を受けた以上、従うしかない。この上は早々に兵を引かれよ」と。

津藩の裏切りにより八幡・橋本の旧幕府軍は総崩れになります。さらに新政府軍別働隊に橋本の楠葉(くずは)台場を攻撃され、もうどうにもならず、大坂に向けて撤退していきました。

正月6日 慶喜の大坂城脱出

淀城を放棄し、八幡・橋本からも撤退した旧幕府軍。最後の望みをかけて大坂城まで撤退してきました。

大坂城 天守
大坂城 天守

正月6日夕刻、大坂城では慶喜が主だった者を集め、軍議を開きました。

「今後どうすべきか」

慶喜が尋ねると、会津藩家老・神保内蔵助(じんぼ くらのすけ)は、江戸への撤退を主張します。

これに新選組局長・近藤勇が異を唱えます。

「私に300の兵をお預けください。一ヶ月は戦ってみせましょう。その間、江戸から援軍を手配してください。もし負け戦となれば潔く討ち死にします。一人も討ち死にする者がないとなれば、東照宮さま(家康)に面目が立ちません」

それをきいて涙を流す者もありました。慶喜もつくづく感じ入った風で、

「そのほうらの忠義、嬉しく思うぞ。すぐに戦の準備をいたせ。こたびは余みずからが出陣しようぞ」

(おお!)

将軍みずからの出陣とあって、全軍、大いに士気上がります。

が、慶喜はその直後、老中の板倉勝静と大目付の永井尚志(なおゆき)を呼んで、

「すぐに江戸に帰る」

板倉勝静・永井尚志は仰天します。

「まだ戦はこれからなのに!なにゆえに逃げ出すのでございますか!」

「江戸で再起をはかるためだ…」

その夜10時頃、徳川慶喜は、

老中板倉勝静(いたくらかつきよ)、酒井忠惇(さかいただとし)、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬(まつだいらさだあき)ほか数名の側近を引き連れてひそかに大坂城裏門から抜け出します。

慶喜一行は小舟で淀川を下り天保山沖に出て、榎本艦隊の軍艦・開陽丸を目指しました。しかし暗闇のため見つからないので、アメリカの軍艦に助けを求めました。

翌7日朝、慶喜一行は、天保山沖に停泊中の開陽丸に乗り込み、8日朝、副艦長沢太郎左衛門(さわ たろうざえもん)に出港を命じます。沢は、

「開陽は大阪湾に停泊中の幕府艦隊の旗艦です。旗艦が単独で出港はできません。艦長の榎本武揚も外出中ですので、出港は延期してください」

そう言って頼みましたが、慶喜はきかず、ついに出港させました。11日夜半、品川沖着。12日江戸城西の丸に入りました。

江戸城 西の丸 伏見櫓
江戸城 西の丸 伏見櫓

慶喜がどの時点で大坂城脱出を決めたか?その真意は何なのか?慶喜はこれについて生涯一言も発言してないので、わかりません(この徹底した沈黙っぷりも慶喜さんの見事な立ち回りだと思います)。

慶喜は水戸学を学び、朝敵となることを何よりも恐れました。錦の御旗がひるがえり、自分たちが朝敵になった時点で、もう逃げようと密かに決めていたと思います。

瓦解する幕府軍

大坂城では大騒ぎになりました。

「大将が逃げた!」
「ばかな!そんなこと、ありえるか」

しかし、事実、徳川慶喜は味方を捨てて、逃げ出したのでした。

「何のための戦だ」
「やってられねえ!」
「やめたやめた。もう国に帰ります」

誰も彼も戦意を失い、大坂城を出て、勝手に散っていきました。

翌7日。

朝廷から徳川慶喜追討令が出されます。

9日。薩長が大坂城を接収。
10日。徳川慶喜の官位剥奪。領土没収。

徳川慶喜と旧幕臣は、完全に、朝敵となりました。

参考文献

『日本の歴史20 明治維新』井上清 中公文庫
『戦況図解 戊辰戦争』木村幸比古監修 サンエイ新書
『徳川慶喜』松尾正人 山川出版社
『人物叢書 徳川慶喜』家近良樹 吉川弘文館
『薩長史観の正体』武田鏡村 東洋経済
『幕末史』半藤一利 新潮社
『図説 戊辰戦争』木村幸比古監修 河出書房新社
『幕末維新伝』木村幸比古 淡交社
『一外交官の見た明治維新』アーネスト・サトウ 坂田精一訳 岩波文庫

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大石内蔵助と元禄赤穂事件(松の廊下篇)オーディオCD版
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「忠臣蔵」として有名な「元禄赤穂事件」。家老大石内蔵助、藩主浅野内匠頭長矩の系譜、刃傷松の廊下、赤穂城引き渡し、内蔵助の山科隠棲…特に、大石内蔵助と堀部安兵衛の関係を軸に語っています。

京都で学ぶ歴史人物講座~足利義昭 10/26
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将軍の座を追われながらも中国毛利領に亡命し、広島鞆の浦で独自に活動をつづけた、最後の将軍足利義昭。その数機な生涯について語ります。

解説:左大臣光永

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