寺田屋事件
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慶応2年(1866)正月23日の夜、坂本龍馬が伏見の定宿・寺田屋で、伏見奉行所の捕り手に襲撃された事件です。
「京都で学ぶ 歴史人物講座」第二回「行基と鑑真」
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現 寺田屋
薩長同盟まで
薩長同盟の成立に先立つ慶応2年(1866)1月10日。
坂本龍馬は下関を発ち、17日神戸着。18日大坂の薩摩藩邸に入り、亀山社中の池内蔵太(いけ くらた)・新宮馬之助(しんぐう うまのすけ)と落ち合い、改革派の幕臣・大久保一翁を訪ねます。
「薩長同盟について、どう思われますか」
「今、幕府はピリピリしている。慎重にやるがよかろう」
との大久保一翁の言葉でした。翌1月19日、龍馬は池内蔵太・新宮馬之助を引き連れて淀川を船でさかのぼり、伏見の定宿・寺田屋に入りました。
翌1月20日、龍馬は池内蔵太・新宮馬之助とともに二本松の薩摩藩邸を訪ねました。
ニ本松薩摩藩邸跡
翌1月21日、薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允の間にようやく薩長同盟が結ばれました。坂本龍馬がなんらかの仲介をしたようですが、ドラマにあるようなお涙ちょうだいの演説をしたわけではなく、同盟の大筋はほぼ決まっていたところを、龍馬がほんの少し後押しした程度と思われます。
同盟は六か条からなり、幕府と戦争になった場合、ならなかった場合、勝った場合、負けそうな場合、細かく想定され、どの場合にも「薩摩が」「長州に」協力することが定められました。
襲撃
薩長同盟締結から二日後の慶応2年(1866)1月23日夜、坂本龍馬は伏見の定宿・寺田屋に戻りました。
現 寺田屋
「坂本はん、お帰りやす」
主人のお登勢は、「男まさりの勤王家」で、坂本龍馬と恋人・お龍の世話をよく見ていました。お登勢はお龍のことをお春と呼んで、店の下働きに使っていました。
この時、寺田屋にはお登勢のほか、龍馬の恋人・お龍、長府藩士で槍の名手の三吉慎蔵がいました。三吉慎蔵は高杉晋作が龍馬の護衛役としてつけた者でした。
龍馬は風呂をあびると、二階の奥の間に入り、三吉慎蔵(みよし しんぞう)とともに、酒を飲み始めました。
現 寺田屋
「いやー目出度い!薩長が手を結べば、これはもう、日本の夜明けぜよ」
「なんといっても坂本さんのおかけです」
この時、寺田屋は伏見奉行所の役人たちに取り囲まれていました。折しも、将軍補佐役・一橋慶喜が二条城入城のため伏見に来ていました。伏見奉行所は龍馬のことを、慶喜に危害を加えようとしている過激派と見たようです。
深夜3時。もう寝ようとしていた所、階下からしのびしのびの足音が響いてくる。
この時、龍馬の恋人おりょうが風呂から上がり、裸に浴衣だけ羽織って裏階段を駆け上り、
現 寺田屋
「坂本さま!敵です!」
「なっ!」
坂本龍馬はとっさに立ち上がり、袴を着ようとするも、袴は隣の間に置いてあるので、そのまま腰に大小をさし、高杉晋作からもらったスミスアンドウェッソンのリボルバー(上海で購入)を持ち、ふっと行灯を吹き消して、腰掛けを後ろに後ずさりする。そこへ!
高杉晋作のリボルバー
「上意!」「上意!」「上意!」
敵十人ばかりが二階に登ってきて、槍を構えて突っ込んでくる。
龍馬は、三吉の肩ごしに、
ターーン
一番右の敵に発砲。
続いて
ターーン
隣の一人に発砲。どさっ…敵は前に腹ばうようにして倒れる。
龍馬は続いて撃とうと、二発までは弾をこめたけれども両手の親指と左手の人指指に深手を負い、手元が思うようにならない。ついに銃を取り落としてしまう。
三吉慎蔵が槍で必死に応戦するも、多勢に無勢。しだいに追い詰められていく。
「坂本さん、逃げましょう」
「ああこうなっては是非もなしじゃ」
バカーーン
龍馬と三吉は、裏の家の雨戸を蹴破って脱出。
濠川沿いの道を走って、寺田屋北西500メートルの材木小屋の二階に隠れました。
濠川
坂本龍馬避難の材木小屋跡
わんわんわん、
「えーいやかましい犬じゃのう!」
「坂本さん、もはやこれまでです。私は腹を斬ります」
「おう、そうか!死ぬ覚悟なら、一つ頼まれてほしいぜよ」
「は…、何をでございますか?」
「薩摩藩邸まで行って、助けを呼んできてくれ」
「この敵がひしめく中を!私が、ですか!」
「死ぬ覚悟なんじゃろう。早行ってきてくれや」
龍馬はすでに出血多量で、ふらふらでした。
三吉慎蔵は薩摩藩邸に走りました。途中、伏見奉行所の追撃は受けませんでした。
薩摩島津伏見屋敷跡(坂本龍馬寺田屋脱出後 避難之地)
薩摩藩邸につくと、留守居の大山彦八が応対しました。この人は大山巌の兄です。
「龍馬はどこじゃ!」
実は薩摩藩邸には寺田屋襲撃の件はすでに知れていました。龍馬の恋人・お龍がいちはやく寺田屋を抜け出し、薩摩藩邸に知らせていたのでした。
大山はいち早く伏見を流れる濠川に船を浮かべ、龍馬が潜伏している材木屋に到り、龍馬を救出しました。
その間、伏見奉行所の役人が薩摩藩邸を訪れ、
「坂本龍馬なる浪人がかけ込んだであろう」
そう言ってすごみましたが、
「そんな者は知りもさん」
薩摩側は相手にしませんでした。
しかし龍馬の傷は思いの外深く、伏見の薩摩藩邸ではどうにも手のうちようがありませんでした。そこで、二本松の薩摩藩邸(薩長同盟の協議が行われた場所)に移すこととなりました。
龍馬は薩摩藩の洋式歩兵小隊ニ組と大砲に守られ、伏見から二本松へ護送されていきました。
こうして坂本龍馬は九死に一生を得ました。慶応2年(1866)1月23日、寺田屋事件の顛末です。
次回「第二次長州征伐(四境戦争)」に続きます。
京都講演「京都で学ぶ 歴史人物講座」第二回「行基と鑑真」
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