第二次長州征伐(四境戦争)

幕府の命令に従わない長州藩に対し、慶応2年(1866)6月、ついに幕府は兵を動かし、四箇所で戦いが始まります。しかし数に10倍する幕府軍は、近代兵器で武装し士気も高い長州藩に、各地で破れ、大敗北を喫しました。

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将軍家茂の大坂入り

慶応元年(1865)閏5月23日、将軍徳川家茂が長州征伐のため、大坂城に入りました。その姿を見て、人々はアゼンとしました。

「なんだありゃあ?」

徳川家茂その日の装束には、金の陣笠に錦の陣羽織、銀造の太刀をはき、白馬にまたがり、金扇と銀三日月を馬印としていました。関ヶ原の家康公を模したものでした。

一種クラシックな感動はかもし出したかもしれませんが、どう見ても時代錯誤でした。

「あれで長州に勝てるのかね」

人々はバカにして言い合いました。

開戦まで

家茂が大坂城入した後も、長州征伐は遅々として進みませんでした。1年以上にわたって幕府・朝廷・長州の間で水面下の交渉が行われます。

その間、慶応2年(1866)正月23日、薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允の間で、薩長同盟が締結されました。長年にわたる犬猿の仲だった薩摩と長州は手を結び、いよいよ幕府にとって不利な条件がそろってきたのですが、薩長同盟はまったく秘密裏に行われたことであり、幕府は知るよしもありませんでした。

奇しくも薩長同盟締結と同じ正月23日、幕府から長州への処分案に、朝廷からの勅許が下りました。

・長州藩主(毛利敬親)の隠居
・藩主養子(毛利広封(ひろあつ))の蟄居
・10万石減封

5月1日、老中小笠原長行(ながみち)が広島に赴き、長州の使者に事の次第を伝えます。しかし長州の返事は、

「長州への処分はすでに終わっております。これ以上の処分を受けるいわれは無い」

長州は強気でした。高杉晋作のクーデーターにより倒幕派が政権を握り、防長の地は一石たりとも渡さないとの覚悟を固めていました。しかも武士だけでなく、百姓・婦人まで、祖国を守る意識で、士気はすこぶる高いものでした。

その上薩摩と秘密裏に軍事同盟を結んだことであり、薩摩からの手助けも期待できます。

対して幕府軍は、数は多いものの、士気はガタガタでした。

どの藩もあいかわらずの財政難で、長州征伐どころではありませんでした。個人的に長州に怨みがあるわけでもなし、むしろ幕府の横暴の前にたった一藩で反旗をひるがえした長州に内心「でかした」と思う者も多くありました。

「長州と幕府のケンカだろうが。
勝手にやってくれよ。つきあいきれん」

それが駆り出された諸藩の兵士たちの本音であり、士気が上がろうはずもありませんでした。道中、旅行気分で、土産を買い求める者までありました。彼らに当てて、大坂から長州までの名所を解説したガイドブックが出版され、よく売れたようです。

その上、大坂や江戸で大規模な一揆や打ちこわしが起こります。一年以上にわたって将軍が大坂に滞在したことと、諸藩が戦争を予測して米の買い占めをやったことにより、米価が高騰したのです。それに反発しての一揆・打ちこわしが起こったのでした。

このように、幕府軍の長州征伐は誰からも歓迎されていませんでした。

四境戦争

慶応2年(1866)6月、先鋒総督徳川茂承(もちつぐ)が広島に到着。幕府軍および諸藩の兵は、

山陽道方面(芸州口(げいしゅうぐち))
山陰道方面(石州口(せきしゅうぐち))
九州方面(小倉口(こくらぐち))
四国方面(上ノ関口(かみのせきぐち))

四方から、長州に迫ります。

慶応2年(1866)6月7日、幕府軍艦が周防南部大島口を砲撃。ここに第二次長州征伐が始まりました。芸州口・石州口・小倉口・上ノ関口の四つの国境ちかくが戦場になったため長州では「四境戦争」とよびます。

いったん戦端が開いてみると、わずか1万に過ぎない長州軍はめっぽう強く、幕府軍は各地で連戦連敗を喫します。

理由はまず士気の問題。

やる気の無い幕府軍に対し長州軍は祖国を守るために最後の一兵になっても戦うという死にもの狂いの覚悟がありました。

次に装備の問題。

幕府軍と紀州藩兵の一部はかろうじて近代的な装備をしていましたが、諸藩の兵は旧式の火縄銃に槍を持ち重い鎧をまとい、戦国時代からそう変わらない、時代遅れの装備でした。

対して長州軍は最新式のゲベール銃と身軽な西洋式の軍服をまとい、機動力に雲泥の差がありました。

そして指揮官の軍略です。高杉晋作・大村益次郎の指揮のもと、進むべき所は進み、退くべき所は退く、統制の取れた動きでした。

各方面の戦いを見ていくと、

周防南部大島口では、6月8日、幕府方松山藩兵が周防大島に上陸。しかし17日、長州第二奇兵隊による反撃を受け、撃退されました。

東の芸州口では6月17日、幕府方の彦根、榊原藩と長州遊撃隊・膺懲隊が戦闘開始。

戦況は一進一退を繰り返すも、7月下旬の総攻撃で長州は幕府軍を廿日市まで追い、8月7日、停戦協定が結ばれました。

北の石州口(せきしゅうぐち)では6月17日、「軍神」とよばれた参謀・大村益次郎が南園隊ほかを指揮して進撃。翌18日、石見浜田まで進むと、浜田城主は城を焼いて松江に遁走。長州軍はさらに進み、幕領である石見銀山をも手に入れました。

大村益次郎。はじめ村田蔵六。周防の国の医者の家に生まれ、緒方洪庵の適塾に学び、はじめ宇和島藩に出仕。後に萩藩に迎えられます。

大村は、総司令官の高杉晋作に「幕府軍を破るには一万一挺の西洋銃が必要」と言って顔を真っ赤にして食ってかかりました。そのため高杉晋作は、「火吹きだるま」とあだ名したと伝えられます。

小倉口ではもっとも激しい戦いが行われました。高杉晋作・山形狂介の奇兵隊はじめ、報国隊・忠告隊などが奮戦し、翌7月、老中小笠原長行(ながみち)を長崎に追いました。

将軍家茂の死

戦いのさなかの7月20日、大坂にいた徳川家茂が亡くなります。21歳の若さでした。この日の大坂城の様子を勝海舟が書いています。

医官松本良順より隠密の報あり、将軍危篤、終に薨去ありと。余、この報を得て、心腸寸断、ほとんど人事を弁ぜず。忽ち思う所あり、払暁登城す。城内寂として人無きがごとし。余最も疑う。奥に入れば諸官充満、一言を発せず、皆目を以て送る。惨憺悲風の景況、ほとんど気息を絶せんとす。

幕府の敗北

家茂の死後、一橋慶喜が徳川宗家を相続し、みずから陣頭指揮を取ります。「山口まで攻め込む」と豪語しますが、8月はじめ、小倉城が落ちると、慶喜はとたんに戦意を失い、休戦に持ち込みます。

9月2日、幕府使節の勝海舟と長州藩代表の広沢真臣(ひろさわ さねおみ)らの間で講和が結ばれました。事実上、幕府の敗北でした。

次回「徳川慶喜、将軍就任」に続きます。お楽しみに。/p>

告知

京都講演「京都で学ぶ 歴史人物講座」第二回「行基と鑑真」
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8/24(土)17:30- 開催。歴史上の人物を毎回一人ずつとりあげて、その生涯・逸話(エピソード)・ゆかりの地など解説していきます。第ニ回は「行基と鑑真」です。

解説:左大臣光永