四国連合艦隊下関砲撃事件
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何度やられても攘夷をあきらめない長州藩に対し、元治元年(1864)8月5日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ四カ国の艦隊が下関を砲撃しました。2日間にわたる戦闘で、長州藩の砲台はすべて沈黙させられました。長州藩は力まかせの攘夷などムリと、悟らざるをえませんでした。
檀ノ浦砲台の大砲のレプリカ
四国連合の結成
文久3年(1863)中頃から、馬関(下関)海峡は長州によって完全に封鎖されていました。それまで外国船は長崎に寄港してから馬関海峡を通って、瀬戸内海を通って横浜についていましたが、馬関が封鎖されたことによって外国船は航行できなくなってしまいました。
長州は、アメリカ・フランス・オランダの艦隊から砲台・艦隊を破壊されたにもかかわらず、修理して、またも攘夷を行うつもりでいました。
九州側の小倉藩は攘夷には反対でしたが、長州人は小倉の砲台をも占拠し、馬関海峡の両側から外国船を砲撃する構えでした。
イギリス公使ラザフォード・オールコックは文久2年の末から帰国していましたが、元治元年(1864)1月、ふたたび横浜に入りました。
「まだ長州は攘夷なんて寝言を言ってるのか!思い知らせてやれ!文明諸国の武力に対して、いかに自分たちが無力であるかを!」
イギリスはフランスに、ついでアメリカ、オランダに呼びかけ、四カ国でもって、封鎖されている馬関海峡を開かせようということになりました。
4月25日、四カ国連合が結成されます。
6月19日、四カ国の公使たちは馬関攻撃のプランを決め、幕府に通達しました。
「二十日以内に馬関の通航が確保され、また将来にわたる安全が保証されなければ、武力攻撃を行う」
(そんなこと言われてもなあ…)
幕府としては手のうちようがありませんでした。下手に長州に逆らったら幕府が潰される。いっそ外国が長州を潰してくれればいい。そう思って外国に手を貸す役人までいました。
伊藤俊輔・井上聞多の説得
さてこの頃、井上聞多・伊藤俊輔ら五人が毛利家首脳部の命令で、ひそかにイギリスに留学していました。イギリスの最先端の工業技術を学ぶためでした。
彼らは、四カ国連合軍が長州を攻撃しようとしていることを新聞で知ります。
「大変だ!」
欧米の力を実際に見た彼らは、攘夷など、ムリとわかっていました。伊藤俊輔・井上聞多の二人は滞在わずか6ヶ月で留学を切り上げ、日本に帰国。横浜でイギリス行使オールコックに会見します。
「艦隊の出発を延期してください」
「では君たちが長州藩主を説得してくれるのか?煉瓦塀に頭をぶつけるのは無益だと」
「やってみます」
こうしてイギリスの軍艦バロッサ号とコーモラント号が、長州に向けて出発しました。バロッサ号には井上聞多・伊藤俊輔の二人が同乗しました。
6月23日、国東(くにさき)半島東北4キロにうかぶ姫島に上陸。翌24日、山口につきました。
7月27日から28日にかけて、三田尻(山口県防府市)にて、藩主毛利敬親・その養子定広のもと、長州藩首脳部が集まって善後策を話し合います。
結局、こちらから攻撃はしかけない。反撃に限るということで話がまとまりました。毛利家はこの方針で、井上・伊藤にイギリスと交渉させようとしました。
元治元年(1864)8月4日、午後3時半ころ、姫島に停泊中の連合艦隊は三手に別れ、馬関に向けて移動を開始しました。5000人の兵士が乗りこみ、計228門の大砲をつんでいました。
翌8月5日午後2時頃、井上・伊藤が旗艦ユーリアラス号を訪れます。
「談判したいから、ひとまず攻撃は延期してくれ」
帰ってきた答えは、
「平和的解決の時期はもうすぎた」
すでに各艦長に、砲撃のため各自持ち場につけという命令が、つたわっていました。井上・伊藤はなすすべもなく、引き返すほかありませんでした。
連合艦隊の襲撃
元治元年(1864)8月5日、午後4時10分。馬関に入ったユーリアラス号が砲撃を開始。田野浦(豊前、小倉藩領)側にいた全艦隊(バロサ号、ターター号、ジャンピ号、メタレン・クルイス号、レオパード号、デュプレクス号)がこれに続きます。
長州側は西の彦島から東の長府まで長い海岸線上に台場を築き、117門の大砲をすえていました。主力は奇兵隊総督赤根武人(あかね たけと)が指揮する前田砲台と、軍監山県狂介(有朋)が指揮する檀ノ浦砲台の二箇所。兵力は50人程度でした。
連合艦隊が馬関海峡に入るや、長州は串崎岬の砲三門をすえた砲台から砲撃を開始。
ドゴン、ドゴーーン
砲弾がイギリス旗艦のかなり近いところまで飛来するようになったと思う間に、軽艦隊がこの砲台を沈黙させました。
ついでセミラミス号が後甲板砲で砲撃を開始。ほとんど全弾が命中しました。コンカラー号は三発の炸裂弾を発射。
ドカーーーン
ぎゃあああ
その中の一発が人が密集している砲台のあたりに落ちました。
海峡は狭いところでは600メートルほどしかなく、その様子は
「山鳴り谷対え、百雷の一時に発するがごとし」だったと、奇兵隊金子文輔の日記にあります。
また、金子の日記には、連合艦隊の弾丸が奇兵隊に直撃し、
「身体粉砕体躯収拾すべからず」
であったさまが描かれています。
砲撃をはじめて約一時間。主力の前田砲台はじめ、長州の砲台はすべて沈黙させられました。四国連合艦隊に撃ち方やめの号令が出ます。
前田砲台の建物に火災がおき、弾薬庫が爆発して、午後のうちに三度の「花火」が上がりました。
撃ち方やめの合図が出てから、パーシューズ号とメデューサ号の艦長が上陸し、前田砲台の砲14門に鉄釘を打ち込んで、発射不能にしました。
上陸してきた連合軍に対し、長州兵は小銃で、あるいは刀で反撃しましたが、ほとんど相手になりませんでした。
8月7日、大砲鹵獲のため、工作隊が上陸。十門の大砲をボートに積み込み、持ち去りました。
また工作隊は砦にのぼり、野砲を鹵獲したり、ひっくり返したりしました。長州の大砲は六十門が鹵獲されました。
火薬はすべて焼却され、砲弾や炸裂弾は海に投げ込まれました。
二日間にわたる軍事行動で、長州側戦死者14人、負傷者40数人、イギリス側戦死者11人、負傷者55人と伝わります。
講和・賠償
この結果をふまえ、8月8日、旗艦ユーリアラス号の艦上で、イギリス軍キューパー提督との間に講和談判が行われました。日本側の代表は高杉晋作でした。ただしこの頃晋作は萩の実家で座敷牢に入れられていました。
そこを急遽、山口によばれ、長州藩お抱えとされ、イギリスとの交渉役を命じられました。晋作自身「なんだか理由(わけ)がわからぬ」と書いています。
交渉役はしかるべき身分の者でないといけないので、家老宍戸備前の養子ということにして、宍戸刑馬(ぎょうま)と名乗りました。
しかし高杉晋作は英語が得意でなかったので、通訳として井上聞多と伊藤俊介が同行しました。談判の中で、イギリスが条件を出しました。
「彦島を100年ほど租借地にしてくれないか」
すると高杉晋作は、
「それ日本国はアメノミナカヌシノカミ、タカミムスヒノカミ、カムムスヒノカミに始まり…」
神代の昔から始まる日本の歴史をとうとうと述べ立てました。
「なんだ?彼は何を言ってるんだ!」
あせるイギリス側。とにかくやめさせようとしますが、やめない。これこれこういうわけで、日本国は一センチ四方の土地さえも他国に譲ることはできないとまくし立てました。
「わかった。わかった」
イギリス側も本気ではなかったのか、条件は引き下げました。
談判は8月8日、10日、14日と三回にわたって行われ、講和条約が結ばれました。
■以後、外国船が馬関を通航するときは安全を保証すること
■石炭・食物・薪水ほか入り用なものを売り渡すこと
■砲台を新造・修復しないこと
残るは賠償でした。長州は、今回のことは幕府の命令でやったことだから賠償は幕府にかけあってくれといいました。外国側もそれを受け入れました。
賠償金の支払いは、江戸において四カ国の公司と幕府のあいだで行われました。9月22日、賠償金300万ドルと決まりました。
とても支払えない額でした。しかも幕府は目下、薩英戦争の賠償金も負っています。ムリとわかっていました。そこで四カ国の公司はもうひとつの条件を出しました。
「もし幕府が馬関または瀬戸内海に適当な一港を開くなら、賠償にはおよばない」
どうだこんな賠償金、払えないだろう。だったらもう一港、ひらいちゃいなヨという駆け引きです。もうひとつの港とは、神戸を念頭に置いていました。
しかし幕府は賠償のほうを選びました。50万ドルずつの6回払いで、第1回分は翌慶応元年(1865)7月に支払っています。しかし3回まで150万ドル払った時点で幕府がつぶれたので、後は明治政府が明治7年までかけて残りの150万ドルを支払いました。
馬関における砲撃戦と、その後の交渉を通じて、長州とイギリスは急接近しました。それは薩英戦争によって薩摩とイギリスが急接近したようにです。
イギリスの通訳官として戦争に参加したアーネスト・サトウは記しています。
「長州人を尊敬する念も起こったが、大君(将軍)の家臣たちは弱い上に、行為に裏表があるので、われわれの心に嫌悪の情が起きはじめていた」(『一外交官の見た明治維新』)
次回「第一次長州征伐」に続きます。お楽しみに。
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