江戸薩摩藩邸焼き討ち

関東大震災(20分)

伊藤博文暗殺事件(9分)

韓国併合(32分)

清少納言と紫式部(15分)

「歴史とは何か?」(15分)

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京都で学ぶ歴史人物講座~足利義昭
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将軍の座を追われながらも中国毛利領に亡命し、広島鞆の浦で独自に活動をつづけた、最後の将軍足利義昭。その数機な生涯について語ります。

………………

本日のメルマガは「江戸薩摩藩邸焼き討ち」について語ります。

慶応3年(1867)12月9日の「王政復古のクーデター」により、新政権が誕生しました。同日行われた「小御所会議」では、前将軍徳川慶喜に対する処分が決まりました。

「辞官・納地」、すなわち官位を辞させ、全領土を返上させると。

この決定に対し、二条城では旧幕臣たちが怒り狂い、新政府と一戦も辞さない構えでした。

そこで慶喜は、京都を去り、大坂に移ります。

いきり立つ部下を抑えるためと、軍事と経済の中枢、大坂をおさえることで、京都の新政府を軍事的・経済的に封鎖するためでした。

慶応3年(1867)12月13日、徳川慶喜は大坂城に入りました。

慶喜、外交権をおさえる

徳川慶喜は大坂城に入るや、軍事と外交の両面において、新政府への反撃を開始しました。

大坂城 天守
大坂城 天守

軍事については、幕府直属軍、軍艦、そしてフランスの軍事顧問団を大坂に呼び寄せます。

外交については、フランス公司ロッシュの提案を容れて、12月16日、フランス・イギリス・アメリカ・イタリア・プロシア・オランダ、六カ国の公司らを引見します。

その席で慶喜は、12月9日のクーデターを激しく非難し、自分の立場と考えを語りました。

旗本や譜代の諸藩は余に対して兵を挙げよと迫るが、余は戦争は好まないので、ひとまず大坂に下った。(クーデター政権の)暴虐のふるまいを見るに、幼主を立てて叡慮(天皇のお心)にことよせて私の利を求め、万民を悩ませるのは見るに忍びない。余はあくまでも全国民と協力して正しい道を貫こうと願っている。

だから条約をむすんだ諸外国は、日本の国政に干渉せず、条理(法律以前の、筋道や道理)を曲げてはならない。外国との条約を守る権限は、余にあることは各国公司も了承するであろうと。

六カ国公司は慶喜の言葉を受け入れました。これは諸外国によって、「外交権は徳川慶喜にある」と認められたことになります。京都の新政権に対して、まずは慶喜の大勝利といえました。

挙正退奸の上表

慶喜は新政府に対する攻撃の手をゆるめませんでした。

慶喜の名で「挙正退奸の上表」を作り、12月18日、元宇都宮藩士・戸田忠至(とだ ただゆき)を通して、新政府総裁・有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王に提出しようとします。そこには一ニの藩が朝廷に押しかけ、先帝(孝明天皇)の意思を曲げて、今上帝(明治天皇)の真意をじゅうりんしていると非難しました。

そして天皇の意思を曲げるような輩が政権を握っては信義を失い国を損なう。だから、当分の間、外交は慶喜が行うとし、

「すみやかに天下列藩の衆議を尽くし、正を挙げ、奸を退けよ」と結んでいました。慶喜はすでにこの書状を天下列藩にまわし、挙兵を促していました。

しかし、この書状は岩倉具視によって握りつぶされ、明治天皇には届きませんでした。岩倉具視らは戦になることを恐れていました。全国の軍事力を握っているのは慶喜でした。外交権も慶喜が握っていました。今戦を起こされたら新政府は慶喜に太刀打ちできないためです。

結局、新政府が慶喜に届けた知らせは、「上表はとりやめよ。早く軽装にて上洛し、「辞官・納地」の件を朝廷に願い出でよ。そうすれば、徳川家の地位は保障される」というものでした。

すなわち新政府は、慶喜よ、お前の方から官位は返上します、全領土は返上しますと願い出でよ。そうすれば悪いようにはしないと、持ちかけたのです。

慶喜の勝利

しかし慶喜はもう一手、攻めます。12月21日、松平春嶽と山内容堂に書状をたくし、朝廷に届けます。

「私のほうから納地を願い出るために上洛すると、部下が黙っていませんから、朝廷から召されたという形式にしていただきたい。なお上洛の際は部下を引き連れますが、誤解のないように」

なかなかに強気でした。

12月23日の三職会議で、慶喜のこの意見が通ります。

次は、上洛した慶喜にどういった文言を下すのかが、問題となりました。ことに「納地」に関してです。

松平春嶽・山内容堂の案は、

「政府の必要に応じて、徳川の領地を「献上」せよ。もし徳川の領地を「献上」するなら、慶喜が新政府に貢献することを許す」

というものでした。

「返上」ならば「すべての領地をまるごと渡せ」という意味ですが、「献上」であれば、必要に応じて差し出すだけであり、徳川の領土は残ることになります。

また「慶喜が新政府に貢献することを許す」とは、慶喜は「前内大臣」として、引き続き新政府で権力を持ち続けることを意味します。

すなわち12月9日の「小御所会議」以前の状況に、戻ります。大久保利通がその場にいたら猛反対していたでしょうが、この日から議事規則が変更となり、諸藩士の参与は議定および公卿の参与と同席できないことになっていました。すなわち大久保はこの場にいませんでした。

12月26日、松平春嶽・山内容堂は大坂城に入り、慶喜にこの決定を伝えました。

「よしよし」

慶喜は大いに喜びました。このまま行けば慶喜は「前内大臣」として新政府でそれなりの地位を与えられ、しかも徳川の領土は温存される。すべて慶喜の思う通りになりそうでした。

しかしここに予想外の知らせが届きます。

12月28日、大坂城に届いたしらせには、去る12月25日、江戸で市中警備の庄内藩兵が、薩摩藩邸を焼き討ちにしたとありました。

西郷隆盛の撹乱工作

西郷隆盛は大政奉還によって戦争をおこす口実を失いました。そこで西郷は、幕府を挑発する手に出ました。

薩摩藩士益満休之助(ますみつ きゅうのすけ)と伊牟田翔平(いむた しょうへい)を京都から江戸に赴かせ、下総郷士相楽総三(さがら そうぞう)ら浪士約500人を集め、江戸市中で強盗や放火を繰り返させます。

江戸では薩摩浪人や無頼漢たちが徒党を組んで練り歩き、金持ちの家に押し入っては金品を強奪しました。

庶民は「御用強盗」といって恐れました。

それを鎮圧する幕府歩兵隊も、市民をゆすって酒や食料を出させたり、ケンカをふっかけたりする者があり、いよいよ治安は悪化しました。

江戸だけでなく、関東一円に騒ぎは広まっていきました。相模・常陸・武蔵・上総・下総の各地で無頼漢たちが蜂起し、「勤王」「討幕」をかかげて、放火・略奪の限りを尽くしました。

西郷隆盛のねらいは、幕府の力が衰退したことを諸藩に強く印象づけること、そして幕府の側から新政府に対して戦を起こさせることでした。

江戸薩摩藩邸焼き討ち

12月に入ると薩摩浪人はじめ無頼漢たちはさらに過激になり、ついに市中取り締まりを担当する庄内藩邸に発砲します。

「もう見逃せぬ!」

12月25日、庄内藩兵と幕兵による2000人で三田の薩摩藩邸を取り囲み、「庄内藩邸に発砲した犯人の引き渡せ」と要求しました。

もとより薩摩藩邸では聞き入れるつもりもない。そこで庄内藩兵が発砲したのを合図に、庄内藩兵は四方から砲撃を開始しました。

薩摩藩邸には約150人の藩士・浪士がいましたが、数に数倍の幕府方に攻め込まれ、薩摩藩江戸留守居役の篠崎彦十郎はじめ49人が討死。益満休之助が捕縛され、相楽総三らは京都に逃げました。

12月28日、大坂城に事の次第が届くと、旗本・会津・桑名は、いきり立ちました。

「薩賊討つべし!」
「このような卑劣、許せるものか!」

もはや慶喜にも、主戦論を抑えることはできなくなりました。

ここまで「辞官・納地」の件は、慶喜の思うようにまとまりかけていました。

後は上洛して朝廷から辞官・納地の命令を受け、慶喜がそれを受け入れる。慶喜は徳川の領土を新政府にそれなりに「献上」する。それに対して朝廷では慶喜に「議定」の地位を与える。慶喜は天皇の下、新政府でひきつづき実権をにぎりつづける…はずでした。それを、直前にひっくり返されたのです。

討薩の表

ここで慶喜がもう一歩抑えて、自重していれば、破滅は避けられたかもしれません。

しかし大阪城は「薩摩討つべし」の空気に沸き立っていました。慶喜も老中板倉勝静もすっかり興奮していました。

慶応4年(1868)正月1日、「倒薩の表」を作り、これに薩摩藩の罪状を挙げた別紙を添えて、朝廷に奏上しようとしました。いわく、

「12月9日以来のことは、まったく薩摩の悪巧みから出たことである。ことに、江戸・長崎・関東の騒乱は、すべて薩摩の謀略である。東西相呼応して、全国を乱す所業である。天も人も憎むところである。よってこの奸賊どもを引き渡していただきたい。もし聞き入れられないのであれば、やむをえず誅戮(罪ある者を殺すこと)を加えねばならない」

これは新政府に対する宣戦布告に他なりませんでした。慶喜はまた諸藩に書状を送り、大義によって敵を討つから兵を差し出せと命令しました。

慶応4年(1868)正月2日午前、老中格大河内正質(おうこうち まさただ)を総督、若年寄塚原昌義(つかはら まさよし)を副総督とした1万の旧幕府軍が、京都に向けて大坂城を出発します。大坂城には後詰として5000の兵が残されました。

2日夕方、軍勢は淀に到ります。

淀城
淀城

幕府陸軍奉行・竹中重固(たけなか しげかた)の指揮する先遣隊はさらに北上し伏見奉行所に入ります。

伏見奉行所跡
伏見奉行所跡

残りは淀城を本陣として駐屯。この後、会津藩兵を先鋒とする一手が伏水街道へ、桑名藩兵を先鋒とする一手が鳥羽街道に進み、正月3日に合流して京都になだれこむ予定でした。

次回「鳥羽・伏見の戦い(一)」に続きます。

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「忠臣蔵」として有名な「元禄赤穂事件」。家老大石内蔵助、藩主浅野内匠頭長矩の系譜、刃傷松の廊下、赤穂城引き渡し、内蔵助の山科隠棲…特に、大石内蔵助と堀部安兵衛の関係を軸に語っています。

京都で学ぶ歴史人物講座~足利義昭 10/26
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将軍の座を追われながらも中国毛利領に亡命し、広島鞆の浦で独自に活動をつづけた、最後の将軍足利義昭。その数機な生涯について語ります。

解説:左大臣光永