薩英戦争

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文久2年(1862)、横浜近くの生麦村で、イギリス人が島津久光の一行に殺害されました。この事件の賠償としてイギリスは幕府に賠償金、薩摩藩に賠償金と犯人逮捕を要求しました。幕府は賠償支払いに応じたものの、薩摩藩との交渉がつきませんでした。そこで翌文久3年(1863)イギリス艦隊は鹿児島湾に移動。台風の吹き荒れる中、砲撃戦となりました。

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イギリス艦隊、薩摩へ

文久2年(1862)8月21日、横浜近くの生麦村で、イギリス人が薩摩の島津久光の一行に殺害されました。

イギリス側はこの事件について幕府に賠償金11万ポンド(44万ドル)、薩摩藩に賠償金2万5千ポンド(10万ドル)と犯人逮捕を要求しました。幕府はのらりくらり交渉を引き伸ばしましたが、結局11万ポンド(44万ドル)の賠償金を払うことになりました。

しかし薩摩藩へ要求した2万5000ポンドと犯人逮捕の件は、いっこうに話が進みませんでした。幕府が何度も回答を延期するので、イギリス側はイライラしてきました。

「こうなったら直接薩摩まで行きます!」

文久3年(1863)6月22日、イギリス東洋艦隊司令長官キューパー提督率いるイギリス艦隊七隻が横浜を出航。

6月27日イギリス艦隊は薩摩の錦江湾に入りました。

「イギリス艦隊だ。イギリス艦隊が来たぞーッ!」

薩摩藩ではイギリスと幕府の交渉を横目で見ながら、イギリスが薩摩と戦う意思があるのか?必死の情報収集を行っていました。イギリスが薩摩に賠償金と島津久光の首を要求している、との情報も得ていました。

なので薩摩では警戒を強めていました。

そこへ、ついにやってきたイギリス軍艦七隻は、錦江湾をゆったり横切り、鹿児島城下の南、谷山の七ツ島(ななつじま)沖に停泊しました。

交渉

翌28日朝、イギリス東洋艦隊の軍艦7隻は鹿児島市街地を見渡す沖合に単縦列に並び、錨をおろしました。

薩摩藩はイギリス旗艦ユーリアラス号に使者を送り、代理行使ニールと会見させました。

「下手人の処刑と、賠償金2万5000ポンドの支払い。24時間以内に回答が得られなければ自由行動に移らせてもらう」

イギリス側が突きつけた最期通牒に対して、薩摩側は、ある作戦を立てていました。

腕の立つ者を98人、西瓜や桃などを売る商人の格好をさせて、16艘の船に分乗させて、漕ぎ出させる。船に乗り込んで油断したところを斬りかかる。と同時に、台場から一斉射撃するという…名付けて「西瓜売決死隊」。児戯にもひとしき作戦でした。

しだいに大きく見えてくるイギリスの旗船。

「ジャパニーズフルーツ」
「OH!ホシイデース」

まずは水夫たちの警戒を解いて、まんまと乗りこみました。しかし水夫たちは甲板までは上げても長官室までは行かせませんでした。

しかもイギリス側は不穏な空気に気づき、船を少しずつ大砲の射程外に移動させていきました。結局、作戦は中断せざるを得ませんでした。

開戦

薩摩はイギリス側に返事を送りました。

「犯人はまだ捕まっていない。賠償については幕府とよく話し合って談判したい」

何も語っていないに等しい返事でした。

7月1日夜から台風が襲来しました。イギリス側はこれを攻撃の好機とみます。

7月2日早朝、イギリス側は湾の奥にかくれていた薩摩の蒸気船三隻を拿捕し、桜島まで曳航します。艦の名は天佑丸、白鳳丸、青鷹丸。薩摩がイギリスから購入した軍艦でした。

これが開戦のきっかけとなりました。

ドゴーーン、ドッゴーーン

激しい風雨が吹きすさぶ中、薩摩藩の台場から一斉射撃が始まりました。

台場は北から祇園之洲(ぎおんのす)、新波止(しんはと)、弁天波止(べんてんはと)、大門口、天保山(てんぽざん)、

薩英戦争 戦況図

対岸の桜島に北から袴腰(はかまごし)、赤水(あかみず)、鳥島(とりしま)などに台場が築かれ、150ポンド砲はじめ83門の大砲が設置されていました。

「薩摩が撃ってきた!」

イギリス側は拿捕した日本船をすぐに焼き払い、鹿児島と桜島の間の海峡をゆったり北上していきました。

ドゴーーーン

二時間後、ようやくイギリス艦隊は最初の砲撃をしました。二時間も遅れたのは、イギリス艦には賠償金をのせたトランクが載せてあり、弾薬庫が開けられなかったためと言われています。

ドゴーーン、ドッゴーーン

ドッゴーーン

交戦開始45分頃、薩摩藩台場から撃った炸裂弾が、旗艦ユーリアラス号の主甲板に命中しました。

ぎゃああ

ぐぎゃああああ

艦長ジョスリン大佐、副長ウィルモット少佐ほか、七名の水兵が戦死し、一名の士官が負傷しました。

旗艦ユーリアラス号はたまらず機首を転じました。

「今だ、一気に叩け!」

ドゴン、ドゴーーン

薩摩藩はここぞと砲撃を集中させました。大砲の威力としてはイギリス側が勝っていました。しかし薩摩藩は常日頃から鹿児島と桜島の間の海峡に敵艦隊を想定して、砲撃の訓練をしていました。その射程内にたまたまイギリス艦隊が入り込んだことがイギリス側にわざわいしました。

水兵13名が戦死、負傷者50名にのぼったと伝わります。薩摩はまあ善戦したと言えます。

しかし日本側も大きな損害をこうむりました。戦死者こそ少ないものの、

台場のすべてがアームストロング砲の砲撃により、めちゃくちゃになりました。

鹿児島城下の上町(かんまち)や先代藩主・島津斉彬(なりあきら)のきずいた集成館にもアームストロング砲の砲撃が直撃しました。あたり一帯、猛火に包まれました。

しかも烈風が吹きすさんでいたため、懸命な消火活動も無意味でした。結局、500戸、鹿児島城下の三分の一が焼失しました。

翌7月3日、イギリス艦隊は桜島砲台を砲撃しながら退却していきました。石炭と砲弾と食料が切れたための撤退だったようです。4日、戦死者を水葬すると、湾外に去っていきました。

7月11日、イギリス艦隊は横浜に寄港しました。

「かならずもう一度、薩摩への攻撃を行うであろう」

イギリスはそういう声明を出しました。

講和

しかし二度目の戦いは起きませんでした。

9月28日、幕府の仲介により薩摩とイギリスの間で談判が行われました。三度にわたる交渉の末、講和条件がまとまりました。

薩摩は幕府から借用して2万5000ポンドの賠償金を支払うこと。犯人の捜索は継続すること。イギリスは和親がなった上は、薩摩藩の軍艦を買い入れる仲立ちをすること。

交渉のさなか、イギリス側は薩摩人の気質に、一種の気持ちよさを感じたようです。幕府首脳部の、のらりくらりと、何を考えているかわからない、掴みどころの無いのとは全く違う。薩摩人は本音をズバリとぶつけてくる。そこにイギリス側は共感をおぼえたようです。

以後、イギリスと薩摩は急接近していきます。

また薩摩にとってもこの戦は学ぶところがありました。

これまでのように攘夷、攘夷と鼻息を荒げても、実際外国の軍事力には太刀打ちできない。異国船打ち払い、辻切りなんてしたって何にもならぬ。

まずは富国強兵をすすめ、外国のよい所を学び、軍事力を整えるべきだ。そうなってはじめて、欧米列強と張り合えるようになると、以後、藩の方針も切り替わっていきます。

次回「高杉晋作、奇兵隊を結成」に続きます。

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解説:左大臣光永

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