高杉晋作、奇兵隊を結成

文久3年(1863)、長州藩では高杉晋作のもと、欧米列強への対抗手段として、身分をとわない有志による武装組織「奇兵隊」が結成されました。

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檀ノ浦砲台の大砲のレプリカ
檀ノ浦砲台の大砲のレプリカ

長州藩の人材登用

文久3年(1863)5月、長州藩はアメリカ・フランス・オランダの艦隊に砲撃を加えるも、すぐに手痛い反撃を受けました。

6月1日アメリカ艦隊が、6月5日にフランス艦隊が下関に入り、砲撃を加えました。日本の軍監は沈没し、砲台は破壊されました。まったく相手になりませんでした。長州人は欧米列強の実力を、思い知らされました。

「もう、どうにもならならい。武士だけではムリだ」

そこで長州藩首脳部は、武士でなくても、農民でも、町人でも、漁民でも、能力がある者があれば姓名を書いて、申し出でよと訴えました。もう藩だけではどうにもできない。助けてくれというわけです。

もっとも長州藩は下関でアメリカ・フランスに負ける以前から、文久3年(1863)はじめから身分を問わない人材登用を進めていました。それで、入江九一・山県小輔(有朋)・品川弥二郎・杉山松助・伊藤俊輔などが士族の身分に引き上げられていました。

奇兵隊結成

同年6月2日、長州藩主毛利敬親(たかちか)は萩で謹慎中の高杉晋作を山口城に呼び出します。この日はアメリカ艦隊が下関を砲撃した翌日です。

6月6日、高杉晋作、下関着。この日はフランス艦隊が下関を砲撃した翌日です。

毛利敬親が高杉晋作に尋ねて、

「高杉晋作、策はあるか」

「馬関(下関)のことは私にお任せください。私に一つの策があります。有志の士をつのり、一つの隊を創設します。名付けて奇兵隊」

「奇兵隊…!」

奇兵とは、藩の正規軍に対して、高杉晋作個人が指揮権をもつ、遊撃隊的な部隊という意味あいでした。

晋作はその日(6月6日)のうちに下関の白石正一郎邸を本陣として、隊の編成に取り掛かりました。母体となったのは久坂玄瑞を中心とする光明寺党でした。ただし久坂玄瑞自身はこの時期、京都にいっていました。

翌6月7日、隊の設立趣旨や基本方針を五箇条にまとめ、藩の了承をえました。

その第一条には

「奇兵隊の儀は有志の者、相集り候儀に付、藩士・陪審・軽率を選ばず、同様に相交わり、当分力量を蓄え、堅固の隊を整える」

つまり身分に関係なく、志ある者によって隊を作るということです。

「ここですか奇兵隊は」
「私も入りたいんですが」

奇兵隊には参加希望者が殺到しました。6月10日には60人ほどになりました。白石邸では手狭となったため、阿弥陀寺(あみだいじ)に本陣を移しました。今の赤間神宮です。隣の極楽寺にも分宿しました。

現 赤間神宮
現 赤間神宮

6月12日、高杉晋作は馬関総奉行手元役に任じられました。これにより晋作は、馬関方面の軍事指揮権を握ることとなりました。

文久3年(1863)末までに、奇兵隊をはじめ遊撃隊、八幡隊、膺懲(ようちょう)隊など、さまざまな隊が結成されました。神官や力士の隊もできました。被差別部落民も参加していました。

教法寺事件

しかし身分に関係ない隊を作るといっても、長年にわたる封建制のしがらみが、そう簡単に変わるものではありませんでした。

藩の上層部は各隊を厳しく統制し、上下関係を押し付けようとしました。諸隊と正規軍の間には常に対立・衝突が起こりました。

ここに藩士からなる正規部隊である先鋒隊(撰鋒隊)がありました。先鋒隊にはエリート意識がありました。奇兵隊?百姓ふぜいに戦ができるかとバカにしていました。

また奇兵隊も先鋒隊のことをバカにしていました。先鋒隊?戦もできない腰抜け侍どもじゃねえか。なんだ先だっての馬関での失態は、と。

このような奇兵隊・先鋒隊の対立を背景として、事件が起こります。教法寺(きょうほうじ)事件です。

6月5日にフランス艦隊の砲撃があってから、馬関はピリピリしていました。いつまた外国艦隊が襲ってくるかわからない。防備を固めるのだと。

8月9日、前田砲台・檀ノ浦砲台など各砲台の修築がほぼ完了しました。それで藩主の養子・毛利定広が巡察することになりました。

檀ノ浦砲台の大砲のレプリカ
檀ノ浦砲台の大砲のレプリカ

8月16日、毛利定広(さだひろ)が馬関に到着。砲台の巡回をはじめました。奇兵隊は前田砲台を、先鋒隊は檀ノ浦砲台を担当していました。

この日、奇兵隊は銃の訓練・剣術試合などを披露しました。さあ次は先鋒隊の番というところで日没がせまったため、明日ということになりました。

その夜、檀ノ浦砲台に近い教法寺で、先鋒隊士たちは慰労の酒を飲んでいました。

「ちっ、面白くねえ。奇兵隊に先を越されるとは」

「まったくいまいましい百姓どもだ」

「おい知ってるか、今度の一件は宮城が仕組んだことだぞ」

「なにッ!」

宮城彦輔は500石取りの高禄ながら、同輩と意見があわず奇兵隊に入隊した男です。先鋒隊からすると、士族でありながら奇兵隊にはいるなど、裏切り者に見えるわけです。

「堪忍ならねえ」
「断固、抗議すべし」

先鋒隊士たちは酒の勢いもあり、宮城の下宿におしかけました。

「宮城、説明しろ!」
「俺たちを後回しにするよう、手をまわしたな!」
「まあまあ、皆さん、落ち着いてください…」

宮城はいったん場をおさめると、高杉晋作の宿所に行って、相談します。

「とにかく話し合いだ」

高杉と宮城は連れ立って、教法寺に向かいました。

ところが高杉と宮城が門内に入ると、

「奇兵隊の襲撃だ!」
「おのれ百姓ども、ついにキやがった!」

ターン、ターン

先鋒隊が小銃を撃ってきました。高杉・宮城の後ろからは急をききつけて奇兵隊士たちが追いかけてきていました。

「隊長を守れ!」
「今日こそケリつけてやる!」
「あっ、お前ら、待てッ」

奇兵隊士たちは怒り狂って、晋作がとめるのもきかず、教法寺門内に突入しました。

「ひい!来た!」

先鋒隊はほとんどが逃散っていきました。しかし隊士の蔵田幾之進は病床にあったため、奇兵隊によって殺されました。また四人が負傷しました。

その後、奇兵隊の使用人奈良屋源兵衛が事件のことを知らずに本営に戻ろうとしたところ、

「おのれ奇兵隊!よくもやりやがったな」

どすうーーーっ

ぎゃあああ

殺気だった先鋒隊によって、槍で、全身を突かれて殺されました。

奇兵隊も先鋒隊も本陣に帰り、夜を徹して篝火をたき、大砲まで持ち出して警戒を強めました。晋作は事の次第を毛利定広に伝えました。すぐに毛利定広は馬関総奉行国司信濃とともに事態の収拾のために動きました。

翌8月17日、双方の緊張はとけ、衝突には到りませんでした。18日、毛利定広は各砲台を巡察し、19日、山口に帰っていきました。

「どうしたものか…」

毛利定広は頭を抱えました。死者二名。負傷者四名。高杉晋作の監督不足を問わないわけにはいきませんでした。

結局、騒ぎの原因となった宮城彦輔は8月27日、教法寺にて切腹。高杉晋作は9月12日付けで奇兵隊総督を罷免されました。河上弥市と滝弥太郎が後任となり、奇兵隊は小郡(おごおり)に移転となりました。

さてこの処分に先立つ8月18日、京都で政変が起こっていました。

八月十八日の政変」に続きます。

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解説:左大臣光永