坂下門外の変
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文久2年(1862)正月、老中安藤信正が江戸城坂下門外で水戸浪士を中心とした尊王攘夷志士六人に襲撃されます。
一命はとりとめたものの、二ヶ月後、安藤信正は罷免されました。「背中に傷を受けるとは武士の風上にもおけぬ」というのが罷免の表向きの理由でしたが、実際は幕府がテロの恐怖に屈したことにほかなりませんでした。
坂下門
坂下門
尊王攘夷派志士、怒りを高める
文久元年(1861)11月、孝明天皇妹宮・和宮(かずのみや)の一行が江戸に到着しました。朝廷と幕府が手を結ぶ、公武合体政策の一環として、14代将軍家茂に嫁ぐためでした。
ただし公武合体と一言でいっても、朝廷・幕府それぞれの抱く思惑は違いました。朝廷は政治の実権を幕府から取り戻し攘夷を行うため。幕府は朝廷の権威をかりて傾きかけた幕府を立て直すことを狙っていました。
また和宮本人は関東に降ることはまっぴらであり、この結婚には乗り気ではありませんでした。
「まったく、けしからん話だ!」
「ご本人のご意識を無視して結婚など!」
水戸浪士を中心とした尊王攘夷派の志士たちはこの結婚に憤りました。そもそも幕府が和宮嫁降をすすめたのは幕府と朝廷の結びつきを強めることによって、尊王攘夷派の志士たちの倒幕運動をやわらげようという意図があったのですが、この結婚によってかえって幕府への反感は高まりました。
そこへ、尊王攘夷派の志士たちをさらに刺激する情報が入ってきました。
「幕府が、天皇をやめさせようとしている」
すなわち、何かと扱いづらい孝明天皇を廃して、幕府のいいなりになる新しい天皇を立てようとしていると。そのために国学者塙次郎(はなわ じろう)に命じて、廃帝の先例を調べさせている。その首謀者は、老中安藤信正(=信睦)であると。
「なんたる不敬!ゆるすまじ!」
「国賊安藤信正に天誅を!」
襲撃
文久2年(1862)正月15日、この日は上元の佳節といって、諸大名が江戸城に登城し将軍に拝謁する日でした。安藤信正は五つ(午前八時)の鐘を合図に行列を整え、西丸下の屋敷を出発しました。
安藤の屋敷のすぐ目の前が坂下門です。坂下門は台地状の西の丸と、そのふもとの西の丸下を結ぶ門で、現在は宮内庁への通用門として使われています。
坂下門
坂下門
一人の男が、安藤の乗る籠に近づいてきました。
手に訴状とおぼしきものを持っていました。
「無礼者!」
「止まれ!」
男は懐からピストルを取り出し、
ターーーン
籠に向けて発射。これを合図に、左右から
わらわらわらーーー
と五人の者が飛び出して、斬り込みます。
「おのれ!」
「させるか!」
桜田門外の変の教訓から、護衛の数は増やしていました。30人とも50人ともいわれています。
対して襲撃者は6人。それでも襲撃者の一人は、安藤信正の籠にずぶりと一太刀、突き立てました。その切っ先はしかし、安藤信正の背中をかすめただけでした。
「ひ、ひいいい…」
背中に傷を負った安藤信正は籠から出て、命からがら坂下門内に駆け込みました。
ずばっ
ぐはっ
ずばっ
ぎゃひいいい
襲撃者は水戸浪士平山平介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑惣次郎、宇都宮藩士河野顕三、越後の医師河本壮太郎の六人でした。
全員が、その場で斬られました。
彼らは長文の斬奸状を用意していました。斬奸状にいわく、
「和宮の嫁降は幕府が力押しに押し通したことである。また廃帝の先例を調査し、外国人と慣れ親しみ、国内の忠義の士を忌み嫌うのはまさしく国賊である。よって天誅を加える。ただし我らは幕府にも将軍にも意趣ある者ではない。将軍が正しく征夷大将軍としての職務を行うことを望む。今のまま悪弊を正さないならば、必ず天下の大名小名は幕府を見限り、自国ばかりを固めるようになるであろう」
事件から2ヶ月後の4月11日、幕府は安藤信正を罷免します。
「背中に傷を受けるとは武士の風上にも置けない」というのが表面上の理由でしたが、実際は幕府が尊王攘夷派の志士のテロ行為におびえた結果でした。
ここに久世広周(くぜ ひろちか)・安藤信正の政権は瓦解しました。安政7年(1860)3月に大老井伊直弼が殺害された後を受け継いでから、わずか1年10ヶ月の短命の政権に終わりました。
次回「寺田屋騒動」につづきます。