寺田屋騒動

寺田屋騒動。伏見の船宿・寺田屋で薩摩藩士同士が「同士討ち」をした、悲惨な出来事です。

※残酷でグロテスクな描写を含みます。

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寺田屋
寺田屋

いきり立つ尊王攘夷志士

嘉永6年(1853)ペリーの艦隊が来航して開国を迫って以来、国論は真っ二つに割れます。

「開国だ」
「攘夷だ」

時の孝明天皇は大の外国人嫌い。神国日本を自分の代で夷狄に汚させてなるものかというお考えでした。

しかし、大老井伊直弼は外国の圧力に押され、安政5年(1858)、孝明天皇の勅許を待たずして日米修好通商条約に調印しました。

全国の尊王攘夷派の志士たちは、いきり立ちます。

「夷狄を日本に入れるな!」
「神国日本を守れ!」

相次ぐ外国人殺害

以後、全国で、尊王攘夷派の志士による外国人殺害事件が多発します。

その第一は、安政6年(1859)横浜で起こりました。

ロシア人士官らが食料の仕入れのために上陸していた所、複数の抜刀した日本人が駆け付け、メッタ刺しに刺殺さました。

翌安政7年(1860)正月。

イギリス公使館の通訳伝吉(でんきち)が殺害されました。伝吉は漁師でしたがアメリカに漂着し、英語ができたので通訳となっていました。イギリス公使館の近くで背後からバッサリやられました。

同年三月三日、江戸城桜田門外にて大老井伊直弼が水戸・薩摩の脱藩浪士に殺害されます。桜田門外の変です。

尊王攘夷派の志士たちの所謂「夷狄に魂を売り渡した元凶」井伊直弼は、取り除かれたわけです。

しかし井伊直弼亡き後も、尊皇攘夷派の志士による外国人殺害事件は増える一方でした。

同年12月5日には、アメリカ総領事館で総領事ハリスの秘書を務めていたヘンリー・ヒュースケンが殺害されました。

尊王攘夷とは

そもそも尊王攘夷とは何でしょうか?

言葉どおり解釈すると「尊王」=天皇を敬う、攘夷=外国人を打ち払うとなります。一般に尊王攘夷=倒幕というイメージがありますが、尊王攘夷それ自体は倒幕でも佐幕でもなく、この時代の人々を一般に覆っていた考えです。

ただし、「攘夷」のあらわれ方は人によってまちまちでした。

一方で、実際に刀を取ってテロに走る過激派もいました。

幕府や朝廷に外国人を受け入れないよう、働きかける者もありました。

いずれにしても、尊王攘夷とは天皇を敬い外国人を打ち払うという意味で、それ自体は佐幕でも討幕でもない、別次元の話です。

しかしこれが、外国人に対して弱腰の幕府などいらぬ。潰してしまえというところまで行くと、尊王攘夷は討幕に傾きます。

多くの尊王攘夷ははじめは討幕までは考えていませんでした。しかし幕府の外国への弱腰対応を見るにつけて、しだいに討幕へ傾いていったものが多くありました。

寺田屋の変

一つの藩に注目しても、尊王攘夷のやり方について意見が割れていました。

薩摩では、

「天皇を助け攘夷を実行する。そのためには幕府は倒すしか無い」

そう主張する急進派、

「いやいや、何も幕府を倒す必要はない。幕府の内部から改善していけばよいではないか」

という穏健派。

両者が対立を深める中、文久2年(1862)3月、藩主名代・島津久光は藩兵数千人を率いて鹿児島を後にし、京都に向います。

安政の大獄で退けられていた松平慶永(よしなが)・一橋慶喜(よしのぶ)を幕府の重要なポストにつけ、佐幕派の関白・九条尚忠(ひさただ)を追放することを朝廷に陳情するためでした。

つまり、あくまでも話し合いのためです。

ところがそういう島津久光の考えを知らされていない急進派の志士たちは気炎を上げます。

「ようやく幕府を倒す時が来た!」
「そして攘夷を行うのだ!」

そんな感じで鼻息を荒げます。薩摩の急進派をはじめ、全国の過激な尊王攘夷志士が、京都・大阪に集まってきました。

その中には、久留米藩士真木和泉、筑前藩士平野国臣、庄内藩出身の清河八郎、長州の久坂玄瑞らの姿がありました。彼らの多くは大阪の薩摩藩邸に入り、島津久光の京都入りを待ちました。

4月16日、島津久光、京都入り。

「さあケンカだ」
「幕府をぶっ潰すぞ」

いよいよ興奮する志士たち。しかし久光はいっこうに武力行動を取りません。そらそうです。あくまでも久光は話し合いのために上洛したのですから…。薩摩藩の急進派に対しても、島津久光は「過激な行動はつつしめ」と、あらかじめ言ってありました。

「もうガマンできん」
「こうなったら…」

薩摩藩急進派首領・有馬新七(ありま しんしち)以下、尊王攘夷志士たちは、関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義の殺害し、その首を島津久光に奉じることでムリヤリ決起させるという計画を立てました。

4月23日、彼らは大阪の薩摩藩邸を抜け出し、伏見の船宿・寺田屋に入ります。

寺田屋
寺田屋

「なに!急進派が動いた?まずい!」

驚いたのは京都にいた島津久光です。すぐさま寺田屋に使者を送り、説得を試みますが、ことごとく決裂しました。

寺田屋
寺田屋

そこで、いざという時は上意討ちもやむなしということで、奈良原喜八郎・大山格之助・道島五郎兵衛以下九人の剣客を遣わします。

4月23日夜。寺田屋の一階で面談が始まりましたが…埒があきませんでした。急進派はあくまで幕府を倒し、攘夷を行う。そのためには過激な行動もやむなしという考えでした。

「君命に従わぬのかッ!上意!!」

いきなり、説得側の道島五郎兵衛が、急進派の田中謙助の頭に斬りつけました。がはっ。田中謙助はぶっ倒れ、眼球が飛び出しました。

「野郎ッ!」
「やったな!!」

これを機に、双方入り乱れての「同士討ち」が始まりました。

寺田屋騒動が起こった部屋(復元)
寺田屋騒動が起こった部屋(復元)

文久2年(1862)4月23日、寺田屋騒動(寺田屋の変)です。

そう広くない寺田屋の室内で斬り合った結果、急進派は有馬新七以下六名が即死。二名が重傷を負いました。説得側の死者は一人でした。こうして薩摩藩士を中心とした急進派は壊滅。関白襲撃は中止となりました。

伏見寺田屋殉難九烈士碑
伏見寺田屋殉難九烈士碑

伏見寺田屋殉難九烈士之墓(大黒寺)
伏見寺田屋殉難九烈士之墓(大黒寺)

しかしその後も尊王攘夷派の志士たちによる外国人殺害・幕府要人暗殺が続きました。江戸も京都も大阪も、いちじるしく治安が悪化していきました。

京都の治安維持には、西町奉行所・東町奉行所・伏見奉行所の三箇所で当たっていましたが、奉行所だけではとても対応しきれるものではありませんでした。

そこで文久2年(1862)、京都の治安維持のために新たな組織が作られます。京都守護職です。

そして翌文久3年(1863)京都のはずれ壬生(みぶ)の地で結成された浪士組が、京都守護職傘下に組み込まれます。後に名を変えて新選組となります。

次回「生麦事件」に続きます。

発売中

というわけで発売中です。

新選組 結成篇・激闘編
http://sirdaizine.com/CD/MiburoInfo1.html

上巻「結成篇」は近藤勇・土方歳三・沖田総司らの少年時代から始まり、試衛館道場時代、そして浪士組募集に応じての上洛した壬生浪士組がやがて新選組となる中で、八月十八日の政変。初代局長芹沢鴨の暗殺といった事件を経て池田屋事件に至るまでを語ります。

下巻「激闘篇」は禁門の変から第一次・第二次長州征伐、薩長連合、そして大政奉還と時代が大きく動く中、新選組内部では山南敬助の処刑、伊東甲子太郎一派との対立。近藤勇は時勢にあらがおうとするも叶わず、鳥羽伏見の戦いで惨敗した新選組は江戸へ下り、甲州勝沼、下総流山と転戦するも、ついに近藤勇が捕えられ、板橋で処刑されるまでを語ります。

詳しくはリンク先まで
http://sirdaizine.com/CD/MiburoInfo1.html

解説:左大臣光永