王政復古のクーデター

関東大震災(20分)

伊藤博文暗殺事件(9分)

韓国併合(32分)

清少納言と紫式部(15分)

「歴史とは何か?」(15分)

こんにちは。左大臣光永です。

近所のスーパーで9月半ばから自動レジが導入されるので、しきりにアナウンスしています。自動レジといっても完全自動ではなく、商品を受け取ってピッピと入力するのは店員さんがやって、支払いだけを機械でやるそうです。つまり半自動ですね。それで反応を見ながら、将来的に全自動に切り替えていくのでしょう。段階的に、テストしながらやるのは、いいやり方だなと思いますが、店員さんが失業しないか心配です。

本日は「王政復古のクーデター」について語ります。

慶応3年(1867)12月9日、薩摩はじめ五藩が中心となって、王政復古のクーデターが起こされ、新政府が誕生しました。ついで開かれた新政府初の「小御所会議」では、前将軍徳川慶喜と徳川家に対する処分が決まりました。

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京都御所 小御所
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クーデター前夜

慶応3年(1867)10月の大政奉還の後も、徳川家は全国に800万石もの領土を持っており、政治的に無力化されたわけではありませんでした。

なにしろ260年にわたって、政治のことはすべて徳川将軍家がやってきました。いきなり大政を奉還すると言われても、朝廷では何もできませんでした。

さしあたって、政治向きのことは慶喜に委託するほかありませんでした。慶喜は征夷大将軍を辞退したい旨、朝廷に奏上しましたが、朝廷はこれを却下しました。

多くの公卿は、形式上、朝廷に主権が戻ればそれで満足でした。徳川を潰すとか、武力討伐までは必要ない。むしろ慶喜には新政権下で大いに活躍してもらおうと考えていました。

一方、岩倉具視や薩摩の大久保利通、西郷隆盛ら倒幕派は、まったく違う意見でした。

武力倒幕以外にない。

徳川慶喜の政治実権をすべて奪い、何が何でも武力で徳川を叩き潰す。そうでなければ、革命はならないと考えました。

薩摩がなぜ、そこまで武力倒幕に固執したのか?

現在でもよくわかっていません。

たとえ徳川慶喜に、自分の政治実権と徳川の所領地を残したいという抜け目ない計算があったとしても、事実、慶喜は平和的に大政を奉還したのです。

にもかかわらず、薩摩は無理やりに戦を起こし、くたびれ果てた幕府を、痛めつけ、殴りつけ、噛み殺すまで攻撃をやめませんでした。まるで血に飢えた野犬の群れです。

「敵も味方も死ねば皆、仏」とか「和をもって尊しとなす」といった、日本人の古来からの価値観と、薩摩のやり方はまったく違っています。

日本人ではないように思います。

薩摩では西郷隆盛・大久保利通が薩摩国内の慎重派をおさえ、王政復古のクーデターに向けての準備をすすめていきました。歴史の転換点を強く演出するには、どうしても軍事力が必要でした。

長州の三田尻に入った先遣隊についで、藩主島津忠義も薩摩を出発。11月23日、3000の兵を率いて京都の相国寺に入りました。11月28日、長州藩兵1200が、摂津打出浜に上陸し、西宮に駐屯しました。広島藩も300の兵を京都に送りました。

岩倉具視はこれらの軍事力を背景にクーデター計画を進めていきます。大久保利通・西郷隆盛・品川弥二郎らとかたらい、新体制の絵図を描いていました。有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王を「総裁」とし、公卿・諸侯から「議定」をえらび、諸藩士などを「参与」とする。

広島藩・土佐藩・尾張藩・福井藩に協力をあおぐこと。徳川慶喜の処遇は官位一等をさげ、領地を返還させること、などが岩倉の案でした。

クーデター当日

慶応3年(1867)12月8日夕刻、摂政二条斉敬(なりゆき)はじめ諸官・諸藩主が参内し、朝議が開かれます。

朝議の中で、文久2年(1862)以来、蟄居となっていた岩倉具視をはじめ、朝敵とされていた毛利藩主父子、追放されていた三条実美ら公卿についても赦免することが決まりました。

翌9日払暁、朝議が終わり、摂政二条斉敬以下、公卿、諸卿は退出していきました。入れ違いに、昨夜罪ゆるされたばかりの岩倉具視がさっそうたる風で、衣冠を身にまとい、王政復古の詔勅案をいれた箱を掲げて、御所の宜秋門から入ってきました。

京都御所 宜秋門
京都御所 宜秋門

ついで岩倉の同志の公卿・中御門経之(なかみかど つねゆき)も参内します。昨夜の朝議から引き続き宮中に残っていた中山忠能とともに16歳の明治天皇に拝謁します。

「かねてから奏上の、王政復古の案、本日断行いたします」

「うむ。あくまでも穏便にな…」

午前9時頃。西郷隆盛に率いられた薩摩藩兵が御所に押し寄せ、ついで広島・福井・尾張の藩兵も繰り出し、各御門をおさえました。

薩摩藩兵は御所の東南・寺町丸太町に大砲をすえて、にらみをきかせました。宜秋門では桑名藩兵が警備についていましたが、おどろいて逃げ出し、二条城に退きました。

蛤御門では会津藩兵が警備についていました。そこへ薩摩藩兵が押し寄せると、会津藩兵は真っ青になって震え上がり、抵抗もせず、二条城に退きました。つい3年半前の蛤御門の変では、会津と薩摩は肩をならべて長州と戦ったのですが。

蛤御門
蛤御門

昼ごろまでには御所の周辺は薩摩・広島・福井・尾張の四藩の藩兵に抑えられていました。ただし土佐の山内容堂は武力倒幕には反対していたため、土佐藩兵は決起に加わりませんでした。

午後4時頃、山内容堂が小御所にあらわれると、岩倉は、小御所にて王政復古の大号令の文案を決定します。

京都御所 小御所
京都御所 小御所

これは岩倉が国学者玉松操(たままつ みさお)らと練ったものでした。ついで倒幕派の公卿、有栖川宮熾仁親王、仁和寺宮嘉彰(にんなじのみや よしあきら)親王らが参内し、「姫君かと見まごうばかり」16歳の明治天皇が学問所に御出御。一同を引見し、王政復古の大号令が発せられました。

京都御所 御学問所
京都御所 御学問所

大政の返上。徳川慶喜の辞表を受けること。摂政・幕府の廃止。新政府には「総裁」「議定」「参与」の三役を置くこと。すべてを「神武創業のはじめ」にもとづいて行うこと。各々勉励し、尽忠報国の誠をもって、奉公すべきこと。

続いて新政府の人事が述べられます。

総裁には有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王。

議定には二人の親王と中山忠能・正親町三条実愛(さねなる)・中御門経之(なかみかど つねゆき)の三卿および、前尾張藩主徳川慶勝・前越前藩主松平春嶽・広島藩浅野茂勲(しげこと)・前土佐藩主山内容堂・薩摩藩主島津忠義の5人が任じられました。

参与には大原重徳(しげとみ)・万里小路博房(までのこうじ ひろふさ)・長谷信篤(はせ のぶあつ)・岩倉具視・橋本実梁(さねやね)の五卿が任じられ、別に尾張・越前・広島・土佐・薩摩からそれぞれ三人ずつ出すこととされました。

クーデターはわずか数時間の出来事でした。

徳川慶喜は、このクーデター計画を三日前にすでに知っていましたが、黙認しました。

なぜか?

慶喜はこの3日間について死ぬまで一切発言していないので、わかりません。憶測するに、クーデターを阻止すれば内乱が続き、外国の介入を招くことを恐れたのでしょう。また新政権において、自分にはある程度の地位が保証される考えていたためでもあるでしょう。

小御所会議

12月9日午後6時ころから、明治天皇が小御所に出御され、新政権になってからはじめの三職会議が開かれました。いわゆる「小御所会議」です。

京都御所 小御所
京都御所 小御所

最上段に間は明治天皇が南面してご着座し、すだれを隔てて第二段の間の上座に総裁の有栖川宮熾仁親王が。少し間をあけて議定仁和寺宮嘉彰(にんなじのみや よしあきら)親王が。以下、東西に向かい合って新政府の議定・参与らが席につきました。

第三段の間のしきいぎわには、薩摩藩士岩下佐治衛門・大久保利通、土佐藩士後藤象二郎・神山郡廉(こうやまくにきよ)、越前藩士中根雪江、尾張藩士田宮如雲らがならんでいました。西郷隆盛は外で警備に当たっていました。

議定・中山忠能が開会の言葉を述べると、まっさきに土佐の山内容堂が発言します。

「慶喜公がこの場におられぬのはどういうわけか。これでは公平の処置とはいえぬ。早々に慶喜公を朝議に加えられたい」

山内容堂も倒幕論者ですが、武力倒幕には反対でした。あくまでも穏便に。そして新政府において徳川慶喜にそれなりの地位も与えるという考えでした。だから岩倉具視や大久保利通の徹底した武力倒幕路線とは、食い違います。

倒幕派の大原重徳(しげとみ)が、これに反論します。

「慶喜公は大政を奉還したというが、その真意がはたして忠誠の心から出たものか、疑わしい。まずは慶喜公の忠誠の実証を見なければならぬ」

「忠誠の実証」とは、徳川慶喜が内大臣の官位を辞し、徳川家の領地800万石を返上すること(辞官納地)をさしていました。

ここで山内容堂の怒りがバクハツします。

「なにを言われるか。本日のことは実に陰湿きわまる。ことに多数の兵士が宮門の内外を固めているのは、不祥きわまりない。そもそも二百年あまりにわたって天下万民が平和を謳歌できたのは、ひとえに徳川家あってのことではないか。慶喜公は先祖よりの将軍職をなげうち、政権を奉還された。これが忠誠でなくて、なにを忠誠というのか」

「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」とうたわれた山内容堂だけあって、この時も酒が入っていたのでしょうか。大いに舌が回りました。向いに座った岩倉具視を睨みながら、

「この暴挙を行った二三の公卿の考えを推し量るに、幼冲の天子を擁して権力を私しようとするもの…」

そこで岩倉が、

「御前でござるぞ。つつしまれよ。聖上はならびなき英才であらせられる。今日の挙はすべて、陛下の宸襟から出たこと。幼冲の天子とは、無礼にもほどがあろう」

(幼は幼い。冲も幼い。とことん幼いということ)

岩倉具視が一喝すると、山内容堂はさすがに赤面して、

「これは…たしかに失言でござった。面目もござらぬ」

今度は岩倉具視が発言します。

「太平の基を築いた家康公の功績は言うまでもない。だがその子孫らは権勢をたのみ、上は皇室をあなどり下は公卿・諸侯を制圧し、君臣の義にそむくこと久しい。その上近年、勅命をないがしろにし、外国と条約を結び、多くの憂国の士を殺した。さらに長州に対しては無用の戦を起こし、人民を苦しめ国家を危機に陥れた。慶喜公がほんとうに反省しているならば、官位を辞し、領地を返上し、誠意を示すべきであろう」

…ようするに、これが議論の一番の焦点でした。

徳川慶喜に官位を辞し、領土返上を迫ること。その本音は、新政府はできたばかりで財源がないので、徳川の領土を奪ってこれに当てようということです。

土佐の後藤象二郎が発言します。

「いずれにしても、本人不在のまま話をすすめるのは道義に反する。慶喜公の立ち会いのもと、あらためて会議を持つべきではないか」

うむ、そうだ。そのとおりだ。尾張の徳川慶勝、広島の浅野茂勲が後藤象二郎に同意します。

議論はまとまらないまま、深夜12時、休憩に入ります。宮門を警備している藩兵たちにはねぎらいの酒・するめ・赤飯が配られました。

休憩中、薩摩藩士・岩下佐次衛門は西郷隆盛を呼び迎え、意見を求めました。薩摩としてはどうしても慶喜に官位を辞し、領土を返上させねばならぬ。しかし反対も多い。どうしたものかと。すると西郷は、

「短刀一本あれば片付くことです」

と答えたと。作り話かもしれませんが、西郷隆盛という人物の本質がテロリストであることを、よく示していると思います。

休憩後、岩倉が発言します。

「容堂公の言うこともわからぬではない。だがすでに王政復古の大号令は発せられている。今更後には退けぬ。なんとか諸侯の協力を得たい」

山内容堂・松平春嶽らは押し黙り、それ以上反論をしませんでした。こうして慶喜に官位を辞し、領土を返上させる(辞官納地)を命じることが決まりました。

深夜二時すぎ、会議は終わりました。

二条城の混乱

翌12月10日、議定徳川慶勝・松平春嶽が、二条城に赴きました。徳川慶喜に、辞官納地の件を伝えるためです。城内には、御所の各門の警備を解かれた会津・桑名の藩兵や幕府旗本が溢れかえっていました。皆、一様に殺気立っていました。

二条城 二の丸御殿
二条城 二の丸御殿

「官位返上!?領地返上!?そんなバカな!」

「では何か?徳川の臣は皆、露頭に迷えと言うのか!!」

「薩賊、討つべし」

「この上は薩摩藩兵の守る御所へ、討ち入りしよう」

「そうだ!御所へ討ち入ろう」

徳川慶勝らが城内に入っていくと、薩摩と組んで徳川家を売ったおいぼれめ!などと罵られるしまつでした。

同日、長州藩の先遣隊が京都に入り、相国寺に陣を置きました。翌11日から、薩摩・広島・福井・尾張藩兵ともに宮門の警備につきました。

慶喜、大坂へ

この間、徳川慶喜は迷いに迷っていました。

官位を辞すのはいい。

だが領地返上は何としても避けたい。

では薩摩と一戦するか?

勝てるだろうか?

幕府直属軍、桑名藩兵、会津藩兵、新選組もいる。あわせておよそ1万。

勝てる。

だが勝って、その次はどうなる?

徳川は朝敵となる。先がない。

(水戸学を学んだ慶喜は、朝敵となることを何よりも恐れました)

ではおとなしく薩摩に従うか?

だがそれでは部下が暴発する。何をしでかすかわからぬ。

迷いに迷う慶喜に対して、松平春嶽と徳川慶勝が提案します。

いったん大坂に下ってください。いきりたつ部下を鎮めるためですと。

「うむ…大坂か」

12月12日午後、徳川慶喜は大坂に下ることを決意します。会津・桑名の藩兵から不満が出ましたが、慶喜は「大坂には下るが、それは深い考えがあってのことである。いずれ薩長の罪を問う」と説明しました。

また、軍事と経済の中枢、大坂をおさえることで、京都の新政府を軍事的・経済的に封鎖するという考えもありました。

午後6時頃、徳川慶喜は会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬(さだあき)・老中板倉勝静(かつきよ)らを従えて、二条城を出ます。

13日午後4時頃、大坂城に入りました。

大坂城 天守
大坂城 天守

次回「江戸薩摩藩邸焼き討ち」に続きます。

告知

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9月7日(土)15:00より 静岡駅北口 徒歩5分
男女共同参画センター「あざれあ」第三会議室にて。

講演CD「菅原道真の生涯」
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菅原道真の出生から、少年時代・青年時代・宇多天皇に重く用いられ、右大臣にまで至るも、無実の罪を着せられ、大宰府に流され、死後、怨霊として恐れられ、やがて学問の神様に至るまで語っています。

2019年6月に京都で行った講義の録音です。

解説:左大臣光永