生麦事件

生麦事件。横浜近くの生麦村で薩摩の島津久光一行がイギリス人一行を斬った事件で、薩英戦争のきっかけとなりました。

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島津久光 幕府に働きかける

文久2年(1862)4月、薩摩藩主の父であり名代である島津久光は、薩摩国内の急進的な尊皇攘夷志士を取り締まる(寺田屋事件)と、今度は朝廷に訴えます。

「幕府に攘夷を行うよう、働きかけてください。そのために江戸に勅使を派遣してください」

島津久光の説得が功を奏し、公家の大原重徳(おおはら しげとみ)が孝明天皇の勅使として江戸に下ることとなります。

文久2年(1862)5月、大原重徳一行は東海道を東へ向います。道中、島津久光は1000名の薩摩兵を率いて、大砲を引っ張って、大原重徳一行を警護しました。

6月7日。勅使一行、江戸に到着。少し遅れて島津久光の軍勢も江戸に到着し、江戸城に登城します。

勅使が幕府に突きつけた要求は、こうでした。

一、将軍徳川家茂が上洛し、朝廷と一緒に攘夷について話し合うこと。

一、五大老の設置。もはや幕閣には政治を取り仕切る力が無い。そこで薩摩の島津、土佐の山内、金沢の前田、宇和島の伊達を五大老に任じ、以後彼らが幕政を進めていくこと。

一、幕政を改革し、攘夷を実行すること。そのために一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政治総裁職につけること。

ようするに、攘夷を行い、朝廷側に都合のいい人事を行えということです。これまで幕府主体で進められてきた公武合体を、朝廷主体に切り替えよう意図がそこにはありました。

当時幕府は、文久2年(1862)1月の坂下門外の変がきっかけで引退した安藤信正にかわり、備中松山藩主板倉勝清・山形藩主水野忠精(ただきよ)が老中として仕切っていました。

勅使の提案を受けて、幕府はもめます。

「ばかな。朝廷が幕政に口をはさむものではない」
「それに勅使といっても、薩摩の島津家の息のかかったことではないか」

しかし結局、要求を容れるということで、押し切られてしまいました。文久2年(1862)7月6日、勅使の提案通り一橋慶喜が将軍後見に、9日、松平春嶽が政治総裁職になりました。

「よし。これで目的は達した」

島津久光は大満足でした。

生麦事件

文久2年(1862)8月21日、島津久光は400人を引き連れて江戸を後にします。

一行は品川を過ぎ川崎を過ぎ、午後2時ころ、横浜近くの生麦村に差し掛かりました。ここで事件が起こります。

イギリス商人リチャードソン、香港から来たボロデール夫人、横浜在住のイギリス人ウッドソープ=C=クラーク、ウィリアム=マーシャルの四人が馬に乗って向こうからやってきました。川崎大師を見物に行く途中だったともいいます。そこで四人は島津久光の行列とすれ違います。

「脇へよれ」そう指示された四人は言われた通リ脇へ寄ります。島津久光の行列はしずしずと進んでいきます。やがて四人の目に、久光の乗る籠が見えてきました。そこで「引き返せ」と四人は指示を受けます。

そこで言われた通リ引き返そうとして馬の首をめぐらせたところ、

「無礼者ッ!!」

行列の中の数名が斬りかかり、

ああっ!

ずばっ、

きゃあああ!

ひいい…

リチャードソンは即死。他のニ人は腕や肩を斬られて重傷を負い、ボロデール夫人のみ無傷で横浜に帰りつき、外国人居留地で事のしだいを伝えました。

「なんて非道な!」
「野蛮な日本人を罰してくれ!」

居留地の人々はすぐに米国領事館などに訴えました。

(アーネスト・サトウの日記より)

島津久光は幕府に対して、「大名行列に外国人が馬を乗り入れたので、岡野新助という者が斬りつけました。その者はどこかへ行ってしまいました」と報告しておきました。

幕府首脳部は真っ青になって、薩摩藩に下手人の逮捕を命じました。しかし、いつまで経っても逮捕の報告はありませんでした。岡野新助などもともと存在しない架空の人物だったのです。

島津久光の一行はその後も東海道を西に進み閏8月7日、京都に到着します。

幕府に対する要求がかなって、凱旋将軍の気分だったことでしょう。しかし、京都についた島津久光は愕然とします。

「なんだこれは!」

京都には長州を中心とした尊王攘夷派がぞくぞくと集まり、人々もそれを応援していました。つい一ヶ月前までは薩摩を中心とした公武合体派が力を持っていたのに、今や逆転して、長州を中心とした尊王攘夷派がはびこっていたのです。

「これでは京都はやりにくい。江戸で目的は達したことだし、いったん薩摩に戻ろう」

そう判断した島津久光は、文久2年(1862)閏8月23日、京都を後に薩摩に帰っていきました。

賠償金問題

それにしても無抵抗の外国人を殺害したのです。

当然、外交問題に発展します。

文久3年(1863)2月、イギリス代理行使ニールが、本国からの指示に基づき、日本に10万ポンドの賠償支払いを要求してきます。

同時に薩摩と直接交渉のために船を派遣すること。犯人の逮捕・処刑・薩摩藩に賠償金2万5千ポンドを支払わせることをも要求してきました。

横浜に12隻のイギリス軍艦が入港し、要求に従わない場合は大軍をもってしかるべき処置を取ると、威嚇しました。

イギリスが提示した期限は20日後。

戦争の危機が高まります。横浜では住民に避難命令が出されました。結局、幕府はイギリスの要求する賠償金を支払う他ありませんでした。

「賠償金の件はこれでよろしい。しかし薩摩に対する要求の件はどうなりましたか」

「それについてですが…、なにぶん事が事ですので…、にわかには返答しがたく…」

「どうしてです?薩摩は幕府の領地ではないのですか!いくらでも指示が出せるはずだ。何をグズグズ言いますか」

幕府の舞台裏がガタガタになっている今、雄藩である薩摩を下手に刺激して敵に回すわけにはいきませんでした。日本は幕府と将軍の下にすべての藩が従っていると見ている外国からは、このへんの事情はわかりにくいことだったでしょう。

「わかりました。幕府がそういう態度であれば、直接われわれで行くしかありません」

こうして、文久3年(1863)6月22日、キューパー提督率いるイギリス艦隊七隻が、横浜を出港。薩摩に向いました。

次回「壬生浪士組 結成」に続きます。お楽しみに。

■新選組 結成篇・激闘編
http://sirdaizine.com/CD/MiburoInfo1.html

幕末最強の剣客集団・新選組。その戦いの軌跡を、上下ニ巻にわたって語っています。

上巻「結成篇」は近藤勇・土方歳三・沖田総司らの少年時代から、試衛館道場時代、新選組の結成、八月十八日の政変、初代局長芹沢鴨の暗殺といった事件を経て池田屋事に至るまで。

下巻「激闘編」は鳥羽伏見の戦いで惨敗した新選組が関東に下るも、ついに近藤勇が捕えられ、板橋で処刑されるまでを語ります。
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解説:左大臣光永