壬生浪士組結成
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二年間、放置していたマイクを引っ張り出して、つないでみました。さすがに死んでるかと思ったら、ちゃんとクリアーな音で録れました。
タッパに入れて保管していたせいか、湿気にもホコリにもやられてませんでした。この二年間、一度も顧みられることもなく、よく生きてたなと感心しました。
本日は「壬生浪士組、結成」です。新選組の前身となった壬生浪士組結成のいきさつについて語ります。
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三条大橋
文久3年(1863)2月23日。京都三条大橋に、異様な風体の一団が通りかかりました。
三条大橋
坊主頭の者、半天に股引というばくち討ちのような者、鎖帷子を着込み、筋金入りの鉢巻をした者、年齢も20代から60代まで、さまざまでした。
「うおーっ、京都だ!ついに来たぞー」
「これが鴨川か?ちっせえなあ。多摩川のほうが勝ってらあ」
そんなことも言ったでしょうか…
年齢も20代から60代までまちまちでした。
人数は230人あまり。
彼らは近く上洛する将軍家茂の警護という名目で、江戸で集められた浪士組でした。江戸から中山道を通って、はるばる京にやってきたのでした。
清河八郎
浪士募集を幕府に献策した庄内藩士清川八郎はこの年34歳。
18歳の時に江戸に出て千葉周作の道場・玄武館で免許皆伝を取ります。
安積艮斎(あさかごんさい)の塾に学び、幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)で学んだ文武両道の人でした。
清河は西国への旅を通じて勤王倒幕思想を持ちます。幕府はもう限界に来ている。幕府は倒すべきだと。だから倒幕論者です。倒幕論者である清河八郎が、幕府のための浪士募集を献策する。一見、矛盾に思えますが、清河は胸にある策を秘めていました。
壬生村へ
「近藤さん、宿所はこの近くですか?」
「うん。少し西だ」
一行は京都市内をずんずん歩いていきます。
一行は四条通を歩いて京の町を横切り、京都の西のはずれ・壬生村に入ります。
壬生村
壬生村
わいわい、がやがや…
「静かにーーっ。それぞれの宿所を発表する」
臨済宗の寺・新徳寺を本部として、浪士隊は付近の民家に分かれて泊まります。
前川邸には鵜殿鳩翁・山岡鉄舟(鉄太郎)ら幕府の役人が泊まり、新徳寺には清川八郎、村上俊五郎らが、八木源之丞邸には近藤勇と門下の土方・沖田・山南・原田らが割り当てられます。
八木邸
八木邸
芹沢鴨とその一味新見錦・平山五郎らは、近藤らと共に八木邸に同宿となりました。八木邸は、6畳と4畳半と3畳、それに板の間があるだけの、質素なものでした。
近藤勇
近藤勇はこの年30歳。
近藤勇像(壬生寺)
武州多摩郡の裕福な農家宮川家の三男として生まれました。
父久次郎は農民ながら名を久次と武士風に呼ばせていたほどで、気位が高く、凛とした人物でした。
幼い頃から子供たちに軍談を語り聞かせていました。
父の活き活きと語る源義経や楠正成、加藤清正、張良、韓信、…
中にも幼い勝五郎(近藤勇)がもっとも胸躍らせたのが、関羽の活躍でした。
ある時、勝五郎は父にききました。
「お父、関羽は今、生きているの?」
「それがな、悲しい話だが…関羽はあの立派な性格がわざわいして、
ズルい奴らに殺されちまったんだ!だがな、関羽は最後まで蜀の国に
忠義をつくして、立派に散っていった。まさに武士の鑑だ!
勝五郎。お前もきっと、関羽みてえな立派な武士になるんだぞ」
「うん。おいら、立派な武士になる」
その後、江戸の試衛館道場に入り、腕を上げていきました。道場主の近藤周作は跡取りがいなかったので、この子を養子にほしい、わかりましたということになり、その名も近藤勇となります。
近藤勇は口が大きく眉が迫っているがいつもニコニコ笑顔で、顔が大きいわりに両方の頬に笑窪があるので、やさしいかんじがありました。
よく自分の拳を口の中に入れたそうです。
「近藤さん、あぶないですよ。アゴがはずれちゃいますよ」
「なに、加藤清正は、俺みたいに口が大きくて、こんなふうに自分の口に拳を出し入れしたというぞ。俺も加藤のように出世したいものだ」
そう言って、ガボガボと拳を口に出し入れするのでした。
土方歳三
土方歳三はこの年29歳。近藤より1歳年下ですが、3-4歳は若く見えました。武州多摩郡石田村の裕福な農家に六人兄弟の末っ子として生まれます。
真っ黒な髪の毛がふさふさしていて、眼がぱっちりして引き締まった顔立ちで、むっつりと黙って、ほとんど発言しなかったそうです。
11歳の時、江戸・上野広小路のいとう松坂屋呉服店(今の松坂屋上野店)に奉公に出されますが、番頭とケンカして、店を飛び出し、上野から日野まで9里(36キロ)の道のりを歩いて帰ってきました。商売向きではなかったようです。
松坂屋 上野店
17歳でふたたび奉公に出ますが、奉公先の娘と恋仲になり、店を追い出されてしまいます。
ふたたび日野へ戻ってきた歳三は、姉の嫁ぎ先である佐藤家に出入りしいました。
そこで歳三は家伝の「石田散薬」を持って武州から甲州へかけて行商してまわりました。
「石田散薬」は土方家そばを流れる浅川の河原に生える薬草から作った服用薬でした。
打ち身・捻挫に効果があるとされていました。面白いことに、酒といっしょに飲まないと効果がないといわれていました。
行商のかたわら、ツヅラ箱にはいつも剣道の竹刀や防具をくくりつけ、行き先で道場を見つけては飛び込んで他流試合を挑んでいました。
「あっ、トシさんまた来たわね。ほらほら、
寄っていって。商売なんていいじゃない。
上がって上がって。ゆっくりしていってよ」
などと、歳三は行く先々で、特に女性から歓迎されました。もともと優男な上、後年は不遜な態度にもなりましたが、この頃はとても愛嬌がよく、モテたのです。
沖田総司
沖田総司はこの年22歳。奥州白河藩士沖田勝次郎の長男として江戸の白河藩下屋敷(したやしき)に生まれました。
近藤勇と土方歳三が農民出身で武士に憧れを持っていたのに対し、沖田総司は生まれながらに武士の子だったわけです。
しかも長男ですが、父が死んだ時沖田総司は4歳でした。4歳で家督を継ぐこともできず、沖田家では婿養子を迎えました。
長女ミツが日野宿の農民井上林太郎を婿にとって、林太郎が沖田家の家督を相続します。
その後次女のキンも嫁に出たので、総司は天然理心流三代目として試衛館道場を営む近藤周助のもとに里子に出され、内弟子として住み込むようになります。9歳の時でした。
長男でありながら跡取りではない。
複雑な立場でした。青年期特有の悩みも多かったことでしょう。
しかし総司は試衛館道場でひたすら剣術の修行に没頭し、メキメキと腕を上げていきます。
12歳の時には白河藩の剣術指南役と立ちあって勝利したといいます。
芹沢組
「なにい、もういっぺん言ってみろ」
道中、びりびり空気がふるえるほどの大声を出しまくっていたのは、芹沢鴨でした。
芹沢鴨はこの年32歳。
神道無念流の免許皆伝で、力量ことにすぐれ、「尽忠報国の士 芹沢鴨」と掘った大きな鉄扇をバチリバチリやっていました。
常陸国行方群芹沢村(茨城県行方群玉造町芹沢)の出身で、本名は下村継次(しもむらとしつぐ)。
水戸勤皇派の武田耕雲斎の弟子となり、耕雲斎が結成した天狗党には三百名を預かる幹部として参加しました。
ところが天狗党が潮来(いたこ)の宿に駐屯している時、部下二人が何かのことで芹沢を怒らせます。その時芹沢は、死ねや。ズバッと二人を斬り殺します。そのため、殺人犯になってしまいました。
短気で、わがままで、乱暴で、どうにも手に負えない男でした。
鹿島神宮に参詣した時などは、拝殿の太鼓に対して難癖をつけます。
「なんだあの太鼓は!でかすぎる。めざわりな」
バシン、バシン、ドドン、
「ああ、やめてください。破けてしまいますう」
持っていた鉄扇で太鼓をメチャクチャに叩きまくり、とうとうぶち破ってしまいました。
とうとう掴まって、牢屋に入れられます。そりゃ殺人犯人ですから。しかし、芹沢は懲りませんでした。
「なぜワシがつかまるのだ。理不尽だ!」
芹沢は面あてに死んでやろうと思い、牢の中で断食し、小指を噛み切って、ぽたぽた滴る血潮で
雪霜に色よく花のさきか(が)けて
散りても後に匂ふ梅が香
なんとも血なまぐさい辞世の歌を書いた紙片を、ビタア!と牢屋の格子に貼っておきました。
そのまま行けば死刑になるはずだった芹沢ですが、今回の浪士募集の恩赦にあずかり、罪ゆるされ、シャバに戻ってきたわけです。
清河八郎の謀反
一行が京の壬生村についたのが文久3年(1863)2月23日。
その夜、清川八郎が胸にある考えを秘めて動き始めます。
清川は浪士のうちの主だった者を新徳寺に集め、座敷に端然と正座して、傍らに太刀を引き寄せ、言いました。
「京へ来たのは、近く上洛ある将軍家の守護ということだったが、これはただ、名目のことである。その真の目的は、ひたすら尊王攘夷のさきがけとならんということである。実は、すでに私のほうで、朝廷への上奏文を起草しておいた」
ざわざわ…
「おい、なんか様子が違うじゃないか」
「将軍さまの警護じゃなかったのか?」
一同、わかったような、わからないような、いまいち納得できない空気の中、清河は朗々と読み上げます。こういう意味のことを。
「我々は幕府に召抱えられたものですが、幕府から禄や位をもらうものではなく、ただ尊皇攘夷を行わんとする者です。万一朝廷の意にそむくことがあれば、たとえ同士でも容赦なく切り捨てる覚悟です」
朗々と読み上げると清河は全員をくわっと睨んで、
「ご異存はあるまいな」
と念を押します。一同、わかったような、わからないような
いまいち納得できない感じでした。
しかし清河の勢いに押されたのか、アッケに取られてか、
誰一人反論できませんでした。
「まあ…尊皇攘夷には別に異存は無い」
「そうだなあ。別に悪いことじゃないんだし…」
江戸へとんぼ返り
翌朝夜明けとともに清河は、弁舌に長けた配下の者六人に命じて、京都御所の学習院に上奏文を奏上します。
「よいか。お取り上げがなければ
生きて帰らぬつもりで行ってこい」
「清河さん、まかせてください」
清河のこの奏上にかける覚悟は相当なものでした。
その勢いに押されてか、朝廷は清河の上書を受け入れ、まんまと清河八郎の作戦どおりになりました。
「やった。すべては私の考えた通りに進んでいる」
これで、浪士組は幕府ではなく朝廷の命令で動く、尊皇攘夷の隊ということになってしまいました。清河八郎はもともと尊王攘夷論者であり、倒幕論者であり、幕府のためにどうこうする気はありませんでした。
ただ幕府の権威を使って浪士組を集めておいて、それをそっくりいただいて、尊王攘夷のための隊にしてしまおうという考えでした。
そして、その作戦は見事にうまくいき、浪士隊は幕府ではなく、朝廷の命令で動く組織となりました。
清河八郎ははじめの目的を達すると、さっそく朝廷に働きかけ、江戸に帰還することを求めました。
前年、横浜でイギリス人が斬られた生麦事件が起こりました。
この事件の賠償を求めて、横浜にイギリス艦隊が入港していました。清川の狙いは、できたばかりの浪士組で、攘夷を行うこと。つまりイギリス人たちを殺害することでした。
新徳寺
3月3日、朝廷から浪士組へ帰還命令が下ります。そこで清河は新徳寺の座敷に浪士組の主だった者を集めて告げました。
「関白さまの命である。われら江戸へ下って、
攘夷の急先方をつとめることとなった」
ざわざわ…ざわざわ…
京都に来たばかりで、もう江戸に帰る。
どう考えてもおかしな話でした。
まだ当初の目的である将軍家茂の警護も行っていないのに、そればかりか、将軍家茂は上洛すらしていないのに、なぜ、江戸に帰るのか?
誰も彼も、納得できないような、できるような、複雑な表情をします。
しかし、清河八郎の一種独特の勢いに飲まれてしまい、誰も口に出して反論することはできないかと見えた、その時、
「待てい清川!!」
一同ざあっとそっちを見ると、近藤勇が清河をにらみつけていました。
「われ等は幕府の募集に応じて集まったもの。関白が何を言おうがこの際知ったことではない。将軍家よりのご沙汰なくば、われらは京を一歩も動かぬ」
「な、なに!おのれそのほう、何様のつもりだ」
「貴下こそ何様だ。事々に指図しおって。 もう貴下の指図は受けぬ」
ざわざわっ…
浪士一同、こう喉につまってうまく言葉にできなかったことを、よくぞ言ってくれたという雰囲気な中、
「近藤君に同意である」
声がしたほうを一同がざあっと注目すると、例のわがまま男・芹沢鴨でした。芹沢は鉄扇をぱちぱちさせながら、
「われら、京に花見をしに来たわけではござらぬ。尽忠報国。攘夷の目的もいまだ成らぬに、江戸へ帰る?ばかな。とうてい同意しかねる」
「なっ…ななな…勝手にせよ」
ドタン!
清河は畳を蹴って、出て行きました。
会津藩預かりとなる
3月13日、清河八郎に同意した浪士組は江戸に引き上げていきました。一方、近藤・芹沢一派13名は、京都に残ります。
しかし、残ったとはいえ、まったく後ろ盾がなく、この先どうなっていくのか。さっぱりわかりませんでした。
そこで13名は鵜殿鳩翁をたずねて、わけを話します。こういうわけで、京都に残ることになったが、いかんせん後ろ盾が無い。どうしたものでしょうと。
「貴君らの志。よくわかった。拙者から
会津公に伝えておこう」
会津公は、前年から京都守護職をつとめている会津藩主・松平肥後守容保(かたもり)のことです。黒谷の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)に屯所がありました。
3月10日、鵜殿鳩翁を通して松平容保に、せめて将軍家茂が京都に滞在中だけでも警護させてほしいと嘆願書を出します。
「ダメだったらどうする?」
「それでも、私は京都で攘夷をやります!」
などと言っていましたが、3月12日深夜、浪士組を正式に会津藩の預かりにすると通告がありました。
しかも、将軍の京都滞在中と希望していたのに、時期を定めず預かるとのことでした。
「うおーー、会津の殿様!ありがたいのう」
一同は、祝宴を上げました。
松平容保が浪士組を預かったのは、いくつか理由があります。
尊皇攘夷派の志士たちが「天誅」と称して殺人事件を起こしており、京都守護職だけでは人手が足りなかったこと。
京都守護職は強力な武力を持つものの、大所帯であり、いざという時小回りがきかず、いつでも動ける小規模な機動部隊が必要だったこと、などがあります。
とにかく、浪士組は正式に会津藩預かりとなったのです。待遇として一人あたり月3両が支給されました。
宿所は会津藩から用意されなかったので、引き続き壬生村の八木邸や前川邸を宿所としました。
壬生に宿所があったので、「壬生村浪士」もしくは「壬生浪士(みぶろうし)」と隊の名称も決まります。
その日、八木邸の前に、「松平肥後守御預壬生村浪士屯所」と書かれた大きな看板を掲げました。
これが後の新選組です。
次回「徳川家茂の上洛」に続きます。お楽しみに。