和宮(かずのみや)、徳川家茂に嫁す

こんにちは。左大臣光永です。

さっき糺の森を散歩してきました。葵祭の直前とて、桟敷が整えられ、パイプ椅子が並べられていました。下鴨神社の社殿には葵の葉が飾られ、祭の前のワクワク感がありました。

本日は「和宮(かずのみや)、徳川家茂(いえもち)に嫁す」です。

惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも

文久元年(1861)10月、孝明天皇の妹宮・和宮の行列が京都を出発し、中山道を一路、江戸に向かいました。公武合体政策の一環として、14代将軍家茂に嫁ぐためでした。

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和宮はこの年16歳。いやいやながらの結婚でした。遠く東の田舎へ下ることはうんざりでした。しかも和宮はすでに有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王という婚約者がいたのに、この結婚のために引き裂かれてしまいました。

和宮は兄・孝明天皇への手紙に書いています。「天下泰平の為め、誠にいやいやの事、余儀なく御受け申し上げ候事」と。

打算と妥協の「公武合体」

そもそもこの結婚は大老井伊直弼の腹心・長野主膳が朝廷にしきりに献策したことでした。

狙いは幕府が朝廷と姻戚関係を結ぶことにより朝廷を監視し、コントロール下に置くことにありました。

安政7年(1860)3月、大老井伊直弼が殺されると、老中久世(くぜ)大和守広周(ひろちか)と安藤対馬守信睦(のぶゆき=信正)が政権を握り、和宮降嫁問題を引き継ぎました。特に安藤信睦は積極的に和宮降嫁を進めていきました。

しかし安藤の時代に入ると、公武合体の性質に変化が生じます。朝廷をコントロールするのではなく、傾きかけた幕府を、朝廷の権威を借りることによって立て直そう。そのための公武合体であるという話に切り替わってきました。

そう切り替えざるを得ないほど、幕府の屋台裏は傾いていたのです。各地で尊王攘夷派の志士が蜂起し、幕府を倒せの声は日ましに高まっていました。

そこで、天皇の妹宮を夫人として迎える。どうだ!お前ら尊王、尊王いってるけど、幕府こそ尊王だぞ。なにしろ将軍さまの夫人が天皇の妹だ。これほど尊王なことはないじゃないか。だから幕府を倒すなんてやめてくれというわけです。

孝明天皇の反対と岩倉具視の工作

「和宮を関東へ?とんでもない!」

孝明天皇は和宮降嫁に反対でした。すでに有栖川宮熾仁親王との婚約が進んでいること。妹といっても腹違いであり、天皇の意のままに政治の道具にするわけにはいかないこと。本人が関東は夷のすむ国だといって怯えていることなどが理由でした。

ここに岩倉具視は公武合体の立場に立ち、孝明天皇に妹宮の降嫁を強く推します。

岩倉具視は関白鷹司政通の和歌の弟子となってたくみに取り入り、侍従にまでなった人物です。目先が利く策略家でした。

岩倉は孝明天皇に長文の意見書を奏上します。

「幕府の権威はすでに地に落ちています。白昼に大老が暗殺されたことからも、それは明らかです。幕府はもはや国政をになう力はありません。

今さいわいにも幕府が和宮降嫁を熱心に望んでいます。ここに条件をつけるのです。今後外交・内政あらゆることは朝廷に奏上の上で行えと。そうすれば、政治の実権は朝廷に戻ります。その上で、条約の破棄を行わせればよろしい」

つまり和宮降嫁を認めるかわりに、朝廷に実権を取り戻す。その上で条約を破棄し、攘夷を行うというのが岩倉の語るプランでした。

「うむむ…」

孝明天皇のお気持ちはゆれます。孝明天皇は大の外国嫌い。攘夷を行うという岩倉の話に心揺らぎました。和宮降嫁によって、攘夷が実行できるとなると、これは美味しい話でした。

以後、岩倉が描いた絵図どおりに交渉が進み…

万延元年(1860)幕府は朝廷に和宮降嫁が実現すれば、攘夷を行うとの誓約書を奏上しました。

「今は外国と戦争する時ではないが、軍艦・鉄砲の製造は続けている。折を見て、七八年、ないし十年以内には条約を破棄するか、武力によって外国を打ち払う」と。

実にテキトーな誓約書です。

「七八年、ないし十年以内」。ここなんか「やりません」と言ってるに等しいですよね。「行けたら行く」みたいな。

しかしこのテキトーな誓約書を、孝明天皇は受け入れ、和宮降嫁実現のはこびとなります。

このように、和宮降嫁問題は、朝廷と幕府がお互いに腹の探り合いをして、打算と妥協の上に成り立ったプランでした。

困ったのは和宮本人です。

「固く、固く、お断り申し上げます」

すでに有栖川宮熾仁親王との婚約も進んでいたのです。それを断るなど考えられない。また和宮は生まれた時から万事御所の文化の中で育っています。江戸の武家風になじむはずがありません。

和宮は百々御所(どどのごしょ)とよばれる宝鏡寺に出向き、政局を避けるようになります。

「すでに幕府と約束してしまったのだ。今更断れるはずもない」

孝明天皇は困り果てて、ついに最後の手段に出ます。

「どうしても叶わぬというのであれば、譲位するほかない」

天皇の位をおりると。

江戸時代のはじめ、徳川家康の出した禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)によって天皇および朝廷は実権をとりあげられました。

だから江戸時代の天皇にとって、唯一の意思表明のやり方が、譲位することでした。かつて後水尾天皇が譲位をちらつかせることで徳川家康と交渉したように…

譲位まで出されては、和宮も断れませんでした。

「天下泰平のため、まことに嫌々ではございますが、お受け申し上げます」

ただし、

江戸に下る日は父・仁孝天皇の十七回忌の御陵参拝後とすること。関東に下っても万事、御所風にやることなど、和宮は五つの条件を出しました。

万延元年(1860)10月、朝廷から幕府に和宮を降嫁させる件、受け入れたと伝えられます。

和宮一行 中山道を行く

翌文久元年(1861)10月20日、和宮一行は京都を出発しました。和宮の御輿を中心に、中山大納言忠能(ただやす)、岩倉具視ら大勢の公卿、女官、警護にあたる12藩の武士、計8千人、馬300頭の大行列でした。また沿道を29藩の武士が警護しました。

はじめ和宮一行は、東海道五十三次をのんびり見物しながら行く予定でした。しかし急遽、中山道に変更されます。

この結婚に反対する尊王攘夷派の志士たちが和宮一行が江戸に向かう途中で、京都に連れ戻そうとしているという噂が立ったためです。

また東海道由比のサッタ峠が「去る」に通じるので縁起が悪かったからだとも言われます。

島崎藤村の『夜明け前』に木曽・馬籠宿を通過する和宮の行列のようすが描かれています。

九つ半時に、姫君を乗せた御輿は軍旅の如きいでたちの面々に前後を護られながら、雨中の街道を通った。厳しい鉄砲、纏、馬簾の陣立は、殆ど戦時に異ならなかった。供奉の御同勢はいずれも陣立、腰弁当で、供男(ともおとこ)一人ずつ連れながら、その後に随った。……これらの御行列が動いて行った時は、馬籠の宿場も暗くなるほどで、その日の夜に入るまで駅路に人の動きの絶えることもなかった

島崎藤村『夜明け前』

11月15日、板橋宿につきました。板橋宿の街道沿いには縁切りで有名な「縁切り榎」があります。

縁起が悪いので切ってしまえということになりますが、歴史ある木なので切るわけにいかない。そこで縁切り榎にすっぽり菰をかぶせ、わざわざ別に迂回路を作ってから通ったといいます。

結婚生活

翌文久2年(1862)2月11日、江戸城にて家茂と和宮の婚儀が行われました。ともに17歳でした。こうして夫婦生活が始まるわけですが、万事御所風に、といった和宮の願いはかないませんでした。

大奥には家茂の養母にあたる天璋院(篤姫)や前将軍家定の生母・本寿院がいて、武家風に取り仕切られていました。

「騙された…」

と思ってももう後の祭でした。

一方、家茂にとってもこの結婚は望まないことでした。もともと家茂には伏見宮則子という婚約者がおり、相思相愛の仲でした。それを、今回の結婚のために破談にされたのです。

幕府と朝廷、それぞれの思惑による公武合体政策が、二人の若者の幸せを引き裂いたのでした。

「お互いに損な役回りですね」
「ええ、でも、夫婦となったのですから」

そんなやり取りもあったでしょうか。しかし結果として家茂・和宮はとても仲睦まじい夫婦となりました。

家茂・和宮夫婦の楽しみは、一緒に砂糖菓子を食べることでした。そのせいか家茂は虫歯が30本、和宮は7本でき、幕府おかかえの歯医者が赤穂の塩と楊枝で治療に当たりました。

しかし和宮が降嫁しても公武合体は進みませんでした。かえってこの結婚への反感が、そのまま幕府への反感となって高まっていました。

そこで公武合体の一環として、家茂が上洛することが決まりました。徳川将軍の上洛は、三代家光以来、230年ぶりのことでした。

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