池田屋事件

時は幕末。元治元年(1864)6月5日。

この日、新選組は「長州人が御所に火をかけ、孝明天皇の御身を奪い奉り、長州に連れ去ろうとしている」との情報を受け、局長近藤勇、副長土方歳三以下、34名で、鴨川の西と東に分かれ、四条から三条にかけて捜索していきました。

折しも祇園祭のさなかで、夜の通りはにぎわっていました。

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高瀬川の涼風に、そぞろ歩きの人々の合間を縫って、鎖帷子に身を固めた新選組隊士たちが通りを行くと…

浴衣姿の男女に肩が触れたりなんかして、

「なんやのん、もう!」 「ありゃ壬生狼やな。血相変えとるけど…何や大捕り物でもあるんちゃうか」

三条小橋西入7軒目の旅籠屋、池田屋は長州の定宿の一つと見られており、この夜の重要な捜索地点として挙げられていました。

すっと中をのぞくと、戸口に槍や鉄砲が立てかけてある。

これだと見て近藤は、表に三人、裏に三人立たせておいて、近藤勇・永倉新八・沖田総司・藤堂平助の四人で中に入り、

「今宵、旅宿改めである」

「へ…へい」

おどおどと顔を出す宿の主人。実はこの男も長州人で、長州に宿を提供していました。長州では同志古高俊太郎が新選組に捕縛されたことを受けて、これからどうしようか善後策を話し合っていた所でした。その会合がまさにここ、池田屋において持たれていたのでした。

「お二階の方々、旅宿改めでございます」

その不審な態度を見て、

(やはり、いるな)

確信した近藤は、

ゴチーーン

大の拳骨で主人を思いっきり殴り倒し、愛刀虎徹を鞘から抜き払うと、

ダッダッダッダッダーー

一気に梯子を駆け上がる、その後に続く沖田総司。

「ちっ…見つかったか」

二階には20数人の志士たちが会合を終えて、車座になって酒を飲んでいたところ、階下から声がかかったので、一同、敵を迎え撃とうと抜刀。そこへ鎖帷子姿の近藤と沖田があらわれ、

「御用改めである。手向かいすると容赦なく斬り捨てる」

「なっ…新選組!」「新選組だと!」

一同は恐怖にかられ、う、うひいいいと北の縁側へ走り、屋根づたいに中庭に飛び降ります。

キン、カカッ、キーン

激しい斬り合いとなりますが、近藤勇・沖田総司の凄腕の前に、敵は次々と倒されていきます。

二階に残ったの志士は5名。「沖田、二階は任せた」「わかりました」近藤はこの人数なら沖田一人で十分と判断し、自分は逃げた志士たちを追って、ドタドタドタドターと階下に駆け下り、裏庭に走ります。

沖田総司がゆらり青眼に太刀を構えると、野郎ッと一人の志士が斬りかかり、キン、カーンと二太刀あわせ、ズバーーッ…三太刀目で、沖田に斬られてしまいました。

「ひ、ひいいいっ」

沖田のあまりの凄腕に、二階にいた志士たちは戦意を失い、北の縁側に、逃げていきます。沖田がその後を追いかけようとした時、

「ぐ…はっ」

沖田はよろめき、喀血しました。

持病の肺結核の発作が来ました。沖田は刀を杖とつき、その場にひざまづき、これ以上戦闘を続けることはできなくなり、ここにて戦線を離脱します。

決闘

その間、階下では激しい戦いが続いていました。

裏口では奥沢、安藤、新田の三名が突如二階から飛び降りてきた長州人たちに、アッという間に斬られた所へ駆けつけてきた近藤が、「おのれらーーッ!!」ずばあああ。一人を斬り殺すも、身動きの取れない狭い裏口で複数を相手に、苦戦を強いらる近藤。

中庭では藤堂平助が、垣根越しに飛び出してきた長州人に額を割られ、だらだら流れる血が目に入り、とても戦いづらく、刀にも亀裂が走っていました。「藤堂、加勢するぞ」走ってきた永倉が、ぶんと敵の胴に斬りこむと、敵はこれを受け止め、

キン、カン、キーーン

「永倉!!」

永倉新八の危機と見て、裏口から駆け戻ってきた近藤が、斬。男の後ろから袈裟斬りに斬ってひるんだ敵を永倉は、ぶすーーっとまともに胴体に突き立て、打ち取りました。

「ひ、ひいいいーーっ」

一人は表口に駆け出します。

「待てい」追いかける藤堂平助。ばっと表に飛び出して、助かったと思った、その正面から、

ズブーーーッ

谷三十郎が得意の槍を深々と突き立てた、その後ろから追いついた藤堂が、ずばあっ。思いっきり切り下ろし、ぐぐぬうと敵を仕留めました。

また永倉は、一人を袈裟懸けに斬り、もう一人が便所へ逃げ込んだところを便所の戸ごと串刺しにして、太刀を引き抜こうとすると便所の戸ごとはずれて、男とともに倒れこんできたので、さらにズバァと胴を斬りました。

「藤堂、額の傷は!」

「永倉さん!こんなん、何てことないですよ!」

しかし、藤堂の傷は深く、それ以上戦闘を続けることは、不可能でした。沖田に続き藤堂が戦線を離脱し、残るは近藤、永倉の二名のみ。その上、永倉は左手の親指の付け根をずばりと削り取られていました。今敵が反撃に転じたら一たまりもないという、まさにその時、

「土方隊、到着ーーーーッ」

鴨川の東を捜索していた土方歳三、井上源三郎以下24名が、合流しました。14名が池田屋の中に踏み込み、残っていた浪士数名を次々と捕縛。表口は近藤隊の谷三十郎ら三名に加え、土方隊の残り10名計13名が隙間も無く固めた頃、ようやく会津・桑名の兵士たちが到着し、池田屋から河原町御池の長州藩邸にかけて、びっしりと人員を配備して、特に池田屋のまわりを幾重にも取り囲みました。

もはや、敵の逃げる道はありませんでした。二時間余りにわたる戦闘は終わりました。その後も朝まで捜索を続け、潜伏していた志士20数名を捕縛しました。

激戦の後

翌6月6日朝9時。

新選組隊士たちはいったん祇園の会所に戻り、隊を整えてから壬生の屯所に引き返します。沿道はガヤガヤと見物人で埋まります。隊士の多くは帷子がぼろぼろになり、刀は折れて抜き身のままでした。

沖田総司は真っ青な顔をしていましたがなんとか自力で歩き、藤堂平助は戸板に乗せて運ばれ、永倉新八は全身血まみれでした。

近藤勇、土方歳三の顔にはさわやかな微笑みが見えました。

三人肩を寄せ合い晴れやかに歩いていくその様は、赤穂浪士の吉良邸討ち入り後もかくやと思われるほどのものでありました。

元治元年六月五日、池田屋事件。この出来事により、新選組の名は一躍、世にとどろき、以後、佐幕派の急先鋒として、長州はじめ急進的尊王攘夷派の志士たちを震え上がらせることとなります。

京都講演「京都で学ぶ 歴史人物講座」第二回「行基と鑑真」
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次回「禁門の変(一)」に続きます。お楽しみに。

解説:左大臣光永